北条為昌
北条 為昌(ほうじょう ためまさ、永正17年(1520年) - 天文11年5月3日(1542年6月15日))は、戦国時代の武将。北条氏綱の3男。通称は彦九郎。
略歴[編集]
後北条氏の第2代当主・北条氏綱の3男。第3代当主・北条氏康の弟。
享禄5年(1532年)7月23日に鎌倉の光明寺に宛てて朱印状を発給したのが史料上の初見である。享禄4年8月18日(1531年9月29日)に叔父の氏時が嗣子無く死去したため、その家督を継承して玉縄城主に任命された。氏綱は為昌に玉縄領に三浦郡を任せていた。天文6年(1537年)には武蔵国小机領も任せており、これらは当時敵対していた上杉朝定、上杉憲政らの最前線に当たる場所であり、為昌が北条一門として極めて重要な役割を担っていたことがわかる[1]。
天文2年(1533年)、安房国の里見義豊が叔父の里見実堯を殺すが、実堯の実子の里見義堯が報復のために氏綱に支援を求め、氏綱は為昌に命じて援軍を派遣し、里見義豊と戦っている(稲村の変)。この事件後、為昌は里見義堯の取次を担当するようになる。天文4年(1535年)には武田信虎との山中合戦、天文5年(1536年)の上杉朝興との武蔵入間川合戦などで氏綱・氏康に従って一軍の将として参戦している。天文6年(1537年)に氏綱が河越城を上杉朝定から奪取すると、為昌はその城代に兼任する形で任命されており、北条一門として軍事・外交・政治の全てにおいて極めて重要な立場にあった[2]。
天文11年(1542年)5月3日に死去。23歳没。法名は本光院殿龍淵宗鉄大禅定門。墓所は小田原城内の本光寺[2]。
為昌には男子が無かったため、義兄の北条綱成が家督を継承した[3]。
家族[編集]
妻については全く不明である。かつて黒田基樹は朝倉氏(養勝院殿)が妻と捉えていたが、養勝院殿は綱成の実母と見るのが妥当であるとして現在は否定している[4]。
子女に関しては室町幕府の奉公衆である小笠原康広に嫁いだ娘(種徳寺殿)のみと見られている[5]。