石川貞清
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石川 貞清(いしかわ さだきよ、? - 寛永3年(1626年)4月)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。尾張国犬山城主。江戸時代前期の商人。石田三成の娘婿である。
略歴[編集]
初名は光吉、後に三吉。通称は兵蔵[1]。
はじめ豊臣秀吉に仕え、使番を務めて金切裂指物使番に列する。天正18年(1590年)の小田原征伐後、秀吉から尾張犬山に1万2000石の所領を与えられ、さらに同時に信濃国木曽の豊臣家蔵入地の代官に任命され、備前守に任官した[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、はじめは細川幽斎が籠城する丹後田辺城攻めに参加する。その後、美濃国の稲葉貞通らの支援を受けて居城の犬山城に籠城したが、援軍が次々に撤退したことから自らも犬山城を捨てて脱出し、伊勢国朝熊に逃走する。その後、9月15日の関ヶ原本戦に参加して奮闘した。しかし敗走し、戦後に徳川家康から改易を命じられたが、死罪は免れた。これは、犬山城に籠城していた際に東軍に加担していた木曽の郷士の人質を釈放し、それが結果的に中山道から西上していた徳川秀忠の軍勢に非常に有利になったことを考慮されたためといわれる[1]。
慶長18年(1613年)、秀忠から江戸幕府の御家人の列に加えられたが、やがて剃髪して宗林と号した。そして京都で金融業を営む商人になった[1]。
寛永3年(1626年)4月に死去した[1]。