犬山藩
犬山藩(いぬやまはん)とは、現在の愛知県犬山市一帯を支配した江戸時代の尾張藩の知行地である。慶応4年(1868年)1月に正式に藩として独立し版籍奉還を迎えた。
概要[編集]
江戸時代より版籍奉還まで御付家老の成瀬氏が治めた知行地。
明治維新で明治政府による維新立藩が行われ、正式に藩と認められたのは慶応4年(1868年)1月から廃藩置県の明治4年(1871年)までの、わずか3年ほどであった。居城は犬山城(白帝城)。藩領は尾張丹羽郡・愛知郡・春日井郡・中島郡・海西郡・知多郡、美濃中島郡・安八郡・多芸郡に及んだ[1]。
歴史[編集]
前史[編集]
犬山城は文明年間(1468年から1489年)に築城され、その後は織田信長・豊臣秀吉の支配下となり、文禄4年(1595年)に秀吉の家臣・石川光吉の支配下となる。石川は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後に改易された。その後、尾張清須藩主となった徳川家康の4男で徳川秀忠の同母弟である松平忠吉の家老である小笠原吉次の支配下となる。慶長12年(1607年)に松平忠吉が嗣子無く死去して清須藩が無嗣改易となると、吉次は下総佐倉藩に移封される[1]。
尾張徳川家成立後[編集]
忠吉に代わり清須藩主(後に尾張藩主)となったのは家康の9男で異母弟の徳川義直であり、その義直の傅役で家老の平岩親吉が9万3000石(異説として12万3000石)で入封する。親吉は家康に早くから仕える功臣である。しかし親吉には嗣子が無く、慶長16年(1611年)の親吉の死去により平岩氏も改易された(一説に親吉の子・吉範が跡を継いでいたとする説もある)[1]。
元和3年(1617年)、義直の新たな家老に付せられた成瀬正成が3万石で入封する。成瀬氏は尾張藩で最高の家老、いわゆる付家老として犬山・尾張の藩政を統括した。万治2年(1659年)の第3代当主・成瀬正親の家督相続の際に5000石の加増を受けて3万5000石を領有する犬山城主となり、同時に尾張藩最高の知行持ちとなった。しかし成瀬氏はあくまで尾張藩の重臣であり、幕藩体制下では独立した大名・藩主として認知されておらず、江戸幕府から屋敷所有など若干の特例を認められているに過ぎなかった。これを第7代当主・成瀬正壽や第8代当主・成瀬正住は不服とし、老中就任も可能な幕臣に戻って独立した譜代大名になろうと企て、これに家臣団も加わって一時は激しい運動が行なわれるが失敗している[1]。
藩史[編集]
慶応4年(1868年)1月、当時の犬山城主・成田正肥が朝廷の命令により藩に列せられることで、犬山藩が立藩した[1]。明治2年(1869年)2月、正肥は版籍奉還を願い、6月に勅許を受けて藩知事となる[1]。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により犬山県が設置され、正肥は東京に移り、ここに犬山藩は消滅した[1]。11月に犬山県は名古屋県に併合し、明治5年(1872年)4月に愛知県と改称された[1]。
歴代の家紋[編集]
- 平岩氏(丸に張り弓)
- 成瀬氏(丸に酢漿草)
家数・人口[編集]
歴代藩主[編集]
小笠原家[編集]
- 吉次(よしつぐ)
平岩家[編集]
(譜代)11万3000石
- 親吉(ちかよし)
成瀬家[編集]
(譜代)3万石→3万5000石