明治維新

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明治維新(めいじいしん)とは、19世紀の日本で起きた革命のことである。

経緯[編集]

前史[編集]

16世紀末、豊臣秀吉が家臣の石田三成と共に天下を統一し戦国時代が終結したが、この過程で大勢力を築いていた大名も豊臣に臣従した。その中でも代表的なのが、東海東部(後に関東に移封)を領有した徳川家康と、中国地方一帯を領有した毛利輝元である。豊臣秀吉死後、血筋を継承した子孫に恵まれず権力争いが発生し、関ケ原の戦いが発生、全国の大名が徳川方と毛利・豊臣奉行衆方に分かれ、徳川方が勝利。徳川家康は後に天下を乗っ取り征夷大将軍になって豊臣の子を授かり後に将軍とする約束ごとを交わしたが、徳川幕府は世襲制にしたので、その子を将軍にさせず約束ごとを破棄してしまった。毛利輝元は領土の大半を失い、長門国周防国のみを残すこととなった。これ以降、徳川の時代が2世紀以上続くが、毛利家は打倒徳川が藩是の様になっていた。

豊臣秀吉の政策[編集]

武士や百姓、町民と身分を区別した。1582年、太閤検地は国内の田や畑の大きさや生産性を調査して、領地それぞれに別々になってた、その価値を米の生産量で表示することによって統一した。検知帳をつくり、どこの領地をどちらの農民が生産して、米を幕府に納めたのかをきっちりと分かるようにした。 1588年、刀狩令では農民から刀を剥奪して農業ばかり勤しむよう仕向けた。

ザビエル[編集]

1549年、フランシスコ・ザビエルは薩摩藩島津隆久に優遇されながら来日をした。そして、イエズス会の立て役者となった。徳川家康は初めキリスト教の布教活動に寛容的でイエズス会キリスト教信者と仲を取り持っていたが、キリスト教は突如として徳川家光によって禁止された。

島原の乱[編集]

1637年、島原の乱が勃発し、江戸幕府側はネーデルラント連邦共和国と同盟を結び指導者は松平信綱と一揆軍側はキリスト教徒や農民や浪人で指導者は天草四郎の間の幕府とキリシタンの大規模な内戦である。幕府側が勝利し、一揆軍は全滅した。動機は島原藩主の松倉勝家が生きていくことができない程の沢山の年貢を農民に要求したことである。それを農民や改宗をも断った人は拷問処刑にされ、幕府内で最大規模の大反乱が起きた。

参勤交代[編集]

1604年、父方二代将軍徳川秀忠と母方豊臣江与の間に徳川家光が次男として産まれた。 1635年、三代征夷大将軍、徳川家光が参勤交代を幕府に制度化させた。その目的は大名が2年ごとに江戸に参勤して1年経てば領土へ戻る交代を行うことである。諸大名は参勤交代で財政に負担をかけられて、家光は、その武力や裏切りを抑止する狙いがあった。さらに、その後継者は出身が江戸よりになり、郷土愛を定着させたかった可能性もある。家光は母方の江与が織田信長の妹で江戸幕府は家光から織田の血筋が走り1582年、織田信長本能寺の変明智光秀に裏切られて自害した無念を徳川幕府の世襲制で江与によって晴らすこととなる。以上が江戸幕府が長期間も続いた訳である。事変後は明智光秀が10日間だけ三日天下を取り、直ぐに山崎の戦いで羽柴事豊臣秀吉に討たれて落ち武者狩りに狩られて命を落とした。豊臣秀吉が天下統一を成し遂げれたのは織田信長が自害をしたからだろう。

徳川家光の政策[編集]

1641年、に始まり1853年まで鎖国が約2世紀間も続いた。キリスト教が国内に布教されるのを禁止。貿易は長崎の出島だけで開国して、その相手国はオランダ、中国の明、朝鮮に限定し日本人が外国へ行くのも禁止した。

幕末[編集]

1853年、黒船来航により、欧米列強から開国を求められた。この時、幕府は諸大名や公家から意見を募ることとし、これにより大名・公家の発言力が高まることとなった。最終的に、幕府は開国を決定し、諸国と条約を結ぶこととなる。しかし、急な開国により、疫病が拡大したり、日本の安い金が大量に流出したりという問題が生じていた。この中で、再び鎖国に戻る「攘夷」の機運が世の中で高まっていき、孝明天皇も攘夷を強く望む中、幕府も攘夷を約束してしまう。

一方、毛利家(長州藩)は、独自に攘夷を結構することとし、欧米列強と独自に戦争を開始し、完敗。また、一部の過激派が京都で暴動を起こし、天皇幕府とも対立、長州藩は孤立してしまう。この中で、幕府は長州藩を攻撃した(長州征伐)。

長州藩は、攘夷が不可能であることを悟り、事実上諦めて西洋化する道を選んだ。その一方、藩の方向性は攘夷ではなく倒幕に傾いていった。長州だけでなく、幕府方であった薩摩藩も倒幕を考える様になり、かつては天皇の近くに仕えていた公家であったが失脚した岩倉具視と連絡を取る様になっていった。この中で、倒幕勢力が増えていき、薩摩藩と長州藩の薩長同盟が成立。薩長同盟により、長州方の勢力が強くなり、幕府の長州征伐は失敗した。

大政奉還[編集]

一方で土佐藩は、幕府から薩摩・長州も含めた雄藩連合の様な形を志向していて、その過程で倒幕側にいた。そのため、幕府から朝廷に政権を返上することで、雄藩連合に移行することを考えていた。時の将軍徳川慶喜も、いずれ幕府に政権が戻ると考えて同意、1867年、朝廷に大政を奉還した。奉還された朝廷では王政復古の大号令が発せられた。その後徳川家の処遇について、土佐藩主山内豊信らは徳川宗家を一大名として残すことを考えていたが、失言により発言力を失う。結局岩倉具視など倒幕勢力が強く、徳川家は全ての領地を全ての官職・領地を朝廷に返納することが決定した。

戊辰戦争[編集]

結局1868年、倒幕側と幕府は戦争となった。最初に激突したのは、京都郊外の鳥羽・伏見。薩摩・長州の新政府側が、天皇の錦の御旗を利用することにより優位に立ち、徳川慶喜は敗走・謹慎。これにより、新政府の勝利となった。一方で、東北地方はなかなか降伏せず、新政府と旧幕府方の戦争は会津など東北・北海道各地で継続することとなった。結局、新政府の勝利で終了。幕府は国内の目的にした統合を果たせず、失意に落ちた。

ここで日本を掌握した明治新政府は仕組みを統一による連合方式と言い、西洋化・近代化に向けて動くこととなる。

西南戦争[編集]

1877年、暴動が私学校党から勃発して西郷隆盛らが率いる旧薩摩藩士族を中心に、他の4士族が同盟を結び明治政府に反乱した日本で最後の内戦である。まず征韓論政変で西郷が政府から辞職をされ、次々に官僚や軍人もそうされた。他にも廃刀法金禄公債書条例によって武士が不満を募らせたのが暴動の主な動機である。戊辰戦争で生存をした元新撰組三番隊組長だった都庁の警官、斎藤一が警視隊に所属して苦戦を強いられたが西郷らと戦って、明治政府が勝利した。

維新の主な勢力[編集]

薩摩、長州、土佐、肥前の4藩が中心となったが、薩摩は後に維新に反乱して西南戦争を勃発させたので実質は長州、土佐、肥前が建国をした国である。

薩摩藩[編集]

大名は島津氏小松帯刀西郷隆盛大久保利通らが主要人物。当初は幕府方であったが、倒幕に藩論を変更。強大な軍事力を持ち、薩摩が倒幕派になったことで明治維新が成功したとも言える。

長州藩[編集]

大名は毛利氏。桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作伊藤博文らが主要人物。そもそも明治維新の発端となった藩。一番最初から幕府と対立し、結局倒幕を成し遂げた後、多くの総理大臣を排出した。この流れは現代も続いており、直近だと安倍晋三が長州藩領、即ち山口県から選出された総理大臣である。

土佐藩[編集]

大名は山内氏後藤象二郎板垣退助坂本龍馬らが主要人物。藩としては一貫して親幕府派であったが、薩摩・長州も含めた雄藩連合の様な形を志向していて、将軍に大政奉還を進言したりした。坂本龍馬は薩長同盟の締結を促して倒幕および明治維新に加担したのは有名である。

肥前藩[編集]

大名は鍋島氏大隈重信らが主要人物。戊辰戦争まではほぼ維新に関わっていないが、明治維新以前から藩の近代化を進めており、その知見を明治新政府に生かして国の近代化を大きく進めたことにより、薩摩・長州・土佐と並び称される様になった。

公家[編集]

岩倉具視三条実美らが主要人物。攘夷志向が強い中で、三条実美など親長州の公家が多かったが、孝明天皇は攘夷を望みながらも親幕府であった。しかし、孝明天皇の死により倒幕勢力が強くなり、薩長と繋がっていた岩倉具視が宮中に復帰、大政を奉還された朝廷は薩長とともに明治新政府を作っていくこととなった。

脚注[編集]