秀次事件

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秀次事件(ひでつぐじけん)とは、文禄4年(1595年)7月に発生した豊臣政権における大粛清事件である。豊臣秀次とその一族、並びに家臣をはじめ連座により大量の要人が処分されたため、秀次事件と称され、この事件が結果的に豊臣家滅亡の遠因をなした。

概要[編集]

事件までの経緯[編集]

織田信長の死後、天下人となった豊臣秀吉であるが、秀吉には後継者となる子供が全くいなかった。そのため、養子として信長の4男である羽柴秀勝を迎えていたものの、これも天正13年(1585年)に早世。実子の誕生をあきらめた秀吉は、義兄・木下家定の5男・秀俊を新たな養子に迎えていた。

そんな中、天正17年(1589年)に側室淀殿との間に実子が生まれた。次男の鶴松であり、実子の誕生に大喜びの秀吉は即座に鶴松を後継者に指名した。しかし、鶴松は天正19年(1591年)8月にわずか3歳で夭折した。

この時期、豊臣家では不幸が相次いだ。天正18年(1590年)には秀吉の妹・朝日姫、天正19年(1591年)には秀吉を長きにわたり支えた弟の秀長、天正20年(1592年)には秀吉の母・なか、甥の秀勝と、一族が立て続けに死んでいったのである。ただでさえ一族が少ない豊臣家にとって、これらの死はいずれも打撃が大きかった。

秀吉は鶴松を失った時点で既に55歳であり、最早実子の誕生はあるまいと諦めたのか、秀勝の実兄で自身の甥に当たる秀次を養子に迎えた。秀次は父親は三好一路、母親が秀吉の実姉である日秀尼(瑞龍院日秀・とも)であった。親族が相次いで死去した秀吉にとっては、秀次以外に適任となる人物はいなかったのである。秀次は秀吉の天下取りにおいて小牧・長久手の戦い四国征伐小田原征伐など様々な合戦に参加して武功を立て、近江国八幡城主として治績も挙げていた。秀吉はその秀次に期待するしかなく、自らの関白職と豊臣家の家督を譲って太閤となり、秀次を事実上の後継者とした。

ところが、2年後の文禄2年(1593年)、側室の淀殿がまた秀吉の3男となるお拾(以下、秀頼)を産んだ。57歳で実子の誕生を諦めていた秀吉が狂喜したのは容易に推定できる。また、この頃の秀吉は朝鮮出兵をしたり、千利休切腹させたりと独裁者として暴走を繰り返していた。そんな秀吉が秀次に関白職や家督を譲ったことを後悔していた可能性は十分に察せられる。

とはいえ、秀吉も当初は秀次をいきなり処分するとは考えていなかったようで、秀次に対して日本を5つに分け、そのうちの4つを秀次に、残りの1つを秀頼に与えること、秀次の娘を秀頼と結婚させて秀次の後継者に秀頼を据えようとした、という話も伝わっている。

秀次の乱行とされる所業[編集]

秀次は秀頼が生まれた頃から、自らの将来を不安視したという。そのせいか、所業が乱れるようになったという。『太閤記』には秀次の乱行として以下のようなことが記録されている。

  • 北野詣の際、通りがかりの盲人の腕を何の理由も無く切り落とした。
  • 正親町上皇崩御した際、その諒闇(喪中)であるにも関わらず、大原や醍醐で狩猟をした。この所業により、「院の御所手向のための狩なれば、これを殺生関白という」と落書された。ちなみに殺生関白とは摂政関白をかけたものである[1]
  • 殺生禁断の聖地である比叡山で諫言を無視して狩猟を行なった。

絵本太閤記』では太閤記にある乱行に加えるように以下のようにある。

この乱行が事実か、というとこれは非常に考えにくい。そもそも、『太閤記』は寛永3年(1626年)に成立と比較的早いのだが、著者が小瀬甫庵なのである。この人物は『甫庵信長記』など出鱈目な記述を多く書いたことでよく知られている[3]。『絵本太閤記』などは享和2年(1802年)の成立と江戸時代後期であり、全く信頼性がおけない。そもそも、これだけの乱行を本当にしていたのであれば、普通は公家の日記などに記録されていてもいいはずなのだが、当時の公家の日記にそんな記録は一切存在しない。そのため、これらの乱行は後年の創作としか思えないのである。

そもそも、正親町上皇の崩御は文禄2年(1593年)1月であり、秀頼が生まれるより半年以上前の出来事なのである[4]。そのため、時期が全く合わないのである。

秀次一党の処分[編集]

文禄4年(1595年)7月8日、秀次は関白職並びに豊臣家の家督を剥奪されて、高野山に追放された。そして、7月15日に秀吉の命令で切腹を命じられた。この際に5人の従者が秀次に殉じた。

事件はそれで終わらず、半月後の8月2日には秀次の妻子、並びに30人余りの寵妾が捕縛されて京都市中を引き回された上で、三条河原において秀次の首の前において次々と処刑されていった。この前後に秀次の家臣とその家族、並びに秀次を弁護した面々なども次々と処刑されたり処分された。こうして秀次とその一党は虐殺されてしまったのである。

この処刑の理由については、現在でも理由は明らかではないが、恐らくは老耄になって秀頼可愛さに秀次を処分したとしか思えないのである。まず、残された数少ない一次史料から見てみたい。

  • 石田三成奉行連署による諸大名に事件を伝える文書に秀次処分の理由について、「不届きの仔細」「不慮之覚悟」があったので(秀次を)高野山に遣わした」とあるだけで、具体的な内容を明らかにしていない。
  • 御湯殿上の日記』『伊達家文書』などでは、「秀次が秀吉に対して謀反を企んだので除かれた」とする記述がある。つまり、謀反が原因としている。

ただし、謀反ならば処分が異常なのである。謀反ならば普通は切腹など許されずに斬刑に処されるはずである。しかも、殺生が禁止されている高野山で処分をしており、この点も異常なのである。

同時代の太田牛一が書いた『大かうさまくんきのうち』では、秀次に対して家臣・木村重玆(著では木村常陸守となっている)、粟野秀用らが謀反を勧め、秀次もそれに同意して談合、武装訓練を重ねたとしている。しかし、計画が秀吉に露見して追放され、後に切腹となったとしている。ただ、この著では「木村が秀次の威光を良いことに高利貸しをしていて、所領の越前国府中では悪行の限りを尽くした」とか、「秀次が北野天神で座頭を殺したり、比叡山に女を連れて登った上に鹿狩りをしてその肉を食した。座頭を斬った刀で秀次も自害したが、まさに因果歴然の道理であり、天道恐ろしき事」としている。太田は著において秀吉は善政を布く名君と評しており、それに対して秀次は何の苦労も無く出世して美女100人余を侍らせて好き放題していたと信じがたいことばかり書いている。

石田三成らの陰謀説[編集]

では、誰かの陰謀かというと、実は有力な史料がある。それは「石田三成の讒言によるもの」である。『恨の介』という仮名草子によると、

「秀次逆心の噂を聞いた秀吉は三成を呼んで事の可否を問うと、三成は(秀次の)逆心は疑いなしと答え、これが秀吉が秀次処分を決意する原因になった」

としている。勿論、これだけで秀次の処分を決めたとするのは早計だが、三成が讒言した可能性は十分あるといえる。この仮名草子は実を言うと慶長年間(1596年から1615年)に成立しており[5]、実は『太閤記』より早いのである。しかも慶長年間だとまだ豊臣家が存在している上に、徳川史観が成立していたとは言い難い時期なので、可能性としては十分にあり得る。

その他、当時中国を支配していた側の史料であるが、その史料に興味深い記録がある。当時の明の武将だった宋応昌の『経略復国要偏』に、以下のような記述がある。

文禄3年(1594年)、小西行長は朝鮮出兵における対明和平工作を担当していたが、その際に秀吉嫡子を『日本国王世子』とし、関白の秀次をその下に置く要望書を明に提出した。行長はこれについて、『関白が秀次なのは動かせなくても、国際的に通用する日本国王を継承するのは秀頼である』と述べた」

この記述に石田三成は出てこないが、和平工作は小西単独でできるはずはなく、恐らく石田も関与していたはずである。秀吉がこれについて知っていたかどうかは不明だが、石田と小西はこの記述を見るに明らかに秀頼派であり、秀次派ではないことが推定できる。

いずれにしても、秀次事件の理由については、今後の研究を待たねばいけないだろう。

影響[編集]

秀次とその家族、その家臣と家族を虐殺した秀吉だが、それだけでは飽き足らず、今度は秀次と親しい大名にまで連座を適用しようとした。浅野幸長細川忠興伊達政宗最上義光らがその対象とされたが、徳川家康前田利家の働きかけもあって彼らは処分を免れている。

凄惨な秀次一族の虐殺については、京童が「この因果はきっと残忍な秀吉とその子の秀頼に巡るだろう」と噂しあったという。なお、処分を免れた大名の大半は、秀吉没後の関ヶ原の戦いで家康の東軍に属している。

また、秀頼が無事に成人したから良かったものの、当時は幼児の死亡率が非常に高く、もしこの事件の後に秀頼が夭折した場合、豊臣家は断絶する恐れがあった。秀次は男女合わせて多くの子女が存在しており、それらを処分したことは、豊臣家の藩屏を同時に失う愚行でもあり、後年の家康の天下取りに大きく有利に働いたことは言うまでもない。

秀次事件の処分者[編集]

家臣[編集]

打ち首または切腹
切腹
殉死

大名・公家・町人[編集]

改易・流罪、追放
蟄居・叱責など

打ち首にされた眷族[編集]

公達
妻妾など
  1. 一の台
  2. 於妻御前
  3. 中納言局
  4. 於和子の前
  5. お辰の方
  6. 於長の前
  7. 於佐子の前
  8. 於萬の前
  9. 於輿免の前
  10. 於阿子の前
  11. 於伊萬の方
  12. 於世智の前
  13. 小少将の前
  14. 左衛門の後殿
  15. 右衛門の後殿
  16. 妙心寺尼
  17. 於宮
  18. 於菊の前
  19. 於喝食の前
  20. 於松の前
  21. 於佐伊の前
  22. 於古保の前
  23. 於仮名の前
  24. 於竹の前
  25. 於愛の前
  26. 於藤の前
  27. 於牧の前
  28. 於園の前
  29. 於杉の前
  30. 於紋
  31. 東殿
  32. 御三末
  33. 津保見
  34. 於知母

難を免れた者[編集]

有力大名
与力大名等
若江八人衆

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. 太田牛一の『大かうさまくんきのうち』における記述と全く同じで、恐らく甫庵が太田の著書を参考に書いた物だろうと思われる。
  2. 中国暴君を記録する際に書かれる乱行であり、史実とは思えない。
  3. 『甫庵信長記』については『三河物語』の著者・大久保忠教からでさえ出鱈目と批判されている。
  4. 正親町上皇の崩御が文禄2年旧暦1月5日。秀頼の出生が文禄2年旧暦8月3日。
  5. 慶長13年(1608年)頃に成立したのではないかと見られている。つまり秀次事件からまだ13年後である。

参考文献[編集]

  • 『伊達家文書』
  • 『絵本太閤記』
  • 『太閤記』
  • 『御湯殿上の日記』
  • 『恨の介』