応仁の乱
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応仁の乱(おうにんのらん 1467年(応仁1年) - 1477年(文明9年))の11年間にわたり京都を中心に、細川勝元を大将とする東軍と山名宗全(持豊)を大将とする西軍にわかれ戦った内乱。応仁・文明の乱ともいう。
概要[編集]
そもそも室町幕府は強力な指導力を持たず、各地の守護大名の力の均衡の上に成り立っていた。そのバランスが崩れて調停者もおらず、力で解決しようとして発生した。
原因[編集]
乱が起きた原因は複数有る。
1473年(文明5年)に東軍・西軍の大将であった細川勝元と山名宗全が相次いで没し、和睦の気運が高まった。1477年に畠山義就が河内国に下向し、大内政弘も領国に引き上げることで乱が終わった[1][2]。
結果[編集]
結果的に足利義尚が家督相続者となったものの、この乱は勝者も敗者もいない内乱とされる。これによって京都は焼け野原となり、天皇も幕府も力を失い、代わって各地の守護大名が力をつけて天下を奪おうとした。戦国時代の始まりである。
出典等[編集]
参考・引用等[編集]
- 今谷明 『日本大百科全書』3巻、宗賀徹夫、小学館、1985年4月20日、初版、829-831頁。ISBN 4-09-526003-3。
- 黒川直則 『世界大百科事典』4巻、下中直人、平凡社、2007年9月1日、改訂新版、42-44頁。