織田信定

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織田 信定(おだ のぶさだ、? - 天文7年11月2日1538年11月23日))は、戦国時代武将尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の1つである織田弾正忠家の当主。尾張勝幡城城主。織田信秀の父であり、織田信長の祖父である。については信貞とも書かれる。官途は弾正忠。

略歴[編集]

この頃の織田家の系譜は混乱が多く、信定の父は織田良信あるいは織田敏定と言われており、はっきりしていない。なお、信定と書かれることが多いが、永正13年(1516年)12月に妙興寺の寺領や末寺を安堵する連署状には「織田弾正忠信貞」と署名している。

信定は清州守護代である織田大和守の三奉行の1人で、勝幡に居城を構えて商業流通の拠点である港町の津島との関係を強化し、豊富な経済力を支配下に置いている[1]

大永6年(1526年)3月、尾張を訪れた連歌師・宗長が津島を見た際、『宗長手記』に「領主の織田霜台(信定)の支配下の津島は繫栄している」と、その繁栄ぶりを生々しく書き留めている。また、同手記では嫡子の信秀が宗長に礼を述べに来たとされており[2]、この頃から信秀と共同統治を行なっていた可能性がある。

信定には多くの子女がおり、その娘を近隣の武将に嫁がせたり、男子を各地の城主に封じて力を拡大した。大永6年(1526年)頃に家督を信秀に譲って隠居している[2]

天文7年(1538年)11月2日に死去した。

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. 岡田 1999, p. 110
  2. a b 岡田 1999, p. 111
  3. Wikipediaではなぜか父親の信定の室となっているが、これは誤りである

参考文献[編集]

関連項目[編集]