寛永
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寛永(げんな)とは、1624年2月30日(グレゴリオ暦1624年4月17日)から1624年2月30日(グレゴリオ暦1644年12月16日(グレゴリオ暦1645年1月13日)までの元号である。この間の日本の天皇は後水尾天皇・明正天皇・後光明天皇である。
概要[編集]
元和20年(1624年)2月30日に寛永元年と改元される。改元の理由は甲子革命によるとされるが、その場合ならなぜ元和7年(1621年)の辛酉に改元が行なわれなかったのか疑問が起こる。このため、元和9年(1623年)7月に第2代将軍・徳川秀忠が嫡子の家光に将軍職を譲渡したことが改元の理由になっているのではないかと推測されている。寛永は文章博士・菅原長維の勘申によるもので、その出典は『毛詩朱氏注』(『詩集伝』衛風考槃の注)の「寛広、永長」によるものと見られている。
この時代、皇位が後水尾天皇から明正天皇に譲位され、そして寛永20年(1643年)10月に後光明天皇が即位することになる。すると一つの年号で3人の天皇が君臨した前例は無いとして改元の議が発生し、寛永21年(1644年)12月16日に正保元年と改元された。
この時代は毛利輝元、加藤嘉明、伊達政宗と戦国武将の退場が相次いだ。また、江戸幕府による紫衣事件などで幕府が朝廷より優位に立ち、鎖国制度を完成させてその支配力が全盛期を迎えた頃に相当する。島原の乱が九州で発生したが、幕府は九州に鎮圧軍を派遣して鎮圧し、以後、江戸時代後期における大塩平八郎の乱まで200年間、大規模な内乱(百姓一揆などを除いて)は発生しなかった。