慶安
ナビゲーションに移動
検索に移動
慶安(けいあん)とは、1648年2月15日(グレゴリオ暦1648年4月7日)から1652年9月18日(グレゴリオ暦1652年10月20日)までの元号である。この間の日本の天皇は後光明天皇である。
概要[編集]
正保5年(1648年)2月15日に慶安元年と改元された。改元の理由は正保の読みが京都においては「焼亡」の音と似ている、保の字は人口木と読めるし、正保元年と書いた場合に逆に「正に保元の年」と読めてかつて保元の乱という大乱が平安時代末期に発生したが、その保元の乱を思い出させ大乱の兆しなりと放言させたりした。また正の字が一にして止まると読む、久しくない兆しであるなど雑説が多く、この正保は大変評判が悪かったため、天皇の御慎によるものである。
慶安の出典は従二位の菅原為適の勘文の「周易曰、乃終有慶、安貞之吉、応地無彊」からである。
慶安5年(1652年)9月18日に承応元年と改元された。
この時代は慶安2年(1649年)に幕府により農民への統制を強化する慶安御触書が発布されたことで有名である。また、慶安4年(1651年)に第3代将軍・徳川家光が死去し、その間隙を突いて浪人で兵学者の由井正雪らが幕府を顛覆させる計画を立てていたことが露見した慶安の変が発生したことでも有名で、それにより幕府は第4代将軍・徳川家綱の下でこれまでの武断政治を改めて文治政治へと転換していくことになった。