天福 (日本)
天福(てんぷく/てんふく)は、日本の元号の一つ。貞永の後、文暦の前。ユリウス暦で1233年 - 1234年の期間を指す。この時代の天皇は第87代天皇・四条天皇。鎌倉幕府の征夷大将軍は第4代将軍・藤原頼経、執権は第3代執権・北条泰時。
概要[編集]
貞永2年4月15日(ユリウス暦1233年5月25日)に四条天皇の即位に伴う代始改元として行なわれた改元である。天福の出典は「書経」(湯誥)の「天道福善禍淫」に対する伝の「政善、天福之」であり、勘申者は式部大輔の菅原為長である。
改元に当たっては天福の他に「康暦」「正元」「延嘉」「政治」「慶延」「天順」「建徳」「嘉元」「大悳」「福悳」「嘉悳」なども候補に挙げられていた。
ところが、改元間もない天福元年9月18日(1233年10月22日)に四条天皇の母である九条竴子が皇子を出産したものの、間もなく母子共に死去するという不幸が発生。さらに天福2年5月20日(1234年6月18日)には承久の乱により鎌倉幕府によって廃されていた仲恭上皇が崩御。さらにその後を追うように天福2年8月6日(1234年8月31日)に四条天皇の父・後堀河上皇が崩御するという不幸に立て続けに見舞われた。当時の人々はそれを承久の乱で隠岐国隠岐に流されていた後鳥羽上皇の生霊によるものとして恐れたという。
結局、天福2年11月5日(ユリウス暦1234年11月27日)に文暦に改元された。『百錬抄』には「天福の字始めより人受けず」と記録している。つまり、天福に人気が無く、不幸が立て続けに起こったことを記している。一方で『一代要記』は「天変地震に依る」としている。
ただ、この天福は藤原定家が中国・唐の末期の天復と似ており、そのため不吉であるとして反対していたという。天復は唐の901年から904年にあたり、晩唐の時代においても朱全忠により唐が専横されて大いに乱れていた時代に当たったためである。そのため、「浅ましかりける年号」などと当時の記録にはあり、反対派も多く存在したという。そのため、相次いで貴人が亡くなる不幸に遭うに及び、後堀河上皇の喪が明けるのも待たずに文暦と改元することになったのである。