大塩平八郎の乱
大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)とは、江戸時代後期の天保8年2月19日(1837年3月25日)に、大坂で発生した江戸幕府に対する反乱である。単に大塩の乱とも言われる。
概要[編集]
仁孝天皇、将軍徳川家斉の時代。天保年間に入ると、江戸幕府の政治腐敗は一層ひどくなっていた。第11代将軍・徳川家斉による50年に及ぶ放漫財政とその政治、いわゆる大御所政治のためであり、そのため庶民は物価騰貴に苦しんだ。それに加えてこの時期は天保の大飢饉まで発生して凶作が相次ぎ、天領の庶民の生活苦はいっそう酷くなっていた。
しかし、大坂等の行政長官である町奉行は救済をするどころか、やはり米不足の江戸に米を送り、幕閣の覚えをよくしようとした。町奉行の頭の中には自身の出世のことしか頭になかった。
経緯[編集]
そのような中で、元大坂東町奉行所の元与力である大塩平八郎(大塩中斎)は、奉行に救済策を訴え出るものの、退職した与力の出るところではないと門前払いされたため、蔵書を売り払って庶民に施しをする一方、檄文を印刷し、武器弾薬を集め、門弟に軍事訓練を行った。決行の日、奉行所への密告があったため予定を繰り上げて兵を挙げた。大塩はまず自宅に火を放った。これは門弟全員に死を覚悟させるためであった。門人や庶民を率いて「救民」や「天照大神」と大書した旗を立て、檄文を撒き、窮民救済や幕政改革などを訴えて反乱を起こした。これが島原の乱以来、実に200年ぶりになる幕府に対する軍事的な反乱という事態となった。
大塩は幕府の役人と結託して暴利を貪る船場の豪商の屋敷に大砲を撃ち込み、炮烙玉を放って大塩曰く「天誅」を加えた。兵力は当初、わずか70人から80人程度であったが、近在の民衆などが加わって最終的には700人ほどにまで膨れ上がった。大阪市中は大混乱に陥り、天満や北浜を中心に3300軒ほどが戦火に見舞われて焼失、大坂市街の当時の5分の1が焼け野原になってしまった。わずか700人ほどの暴徒に幕府軍がこれほど手こずったのは、本来なら真っ先に鎮圧に動かないといけない大坂の奉行らが落馬したり久々の戦火に震え上がって毅然とした態度をとれなかったからである。この醜態ぶりは、後々まで大坂庶民にあざ笑われるほどだったと伝わっている。
幕府軍もようやく鎮圧に動き出して、反乱軍と銃撃戦となった。このようなことに慣れていない暴徒は散り散りとなり反乱は半日で鎮圧された。大塩は養子・大塩格之助と共に逃走した。3月27日に美吉屋五郎兵衛宅に潜伏していたところを幕吏に密告されて包囲され、格之助と共に火薬を周囲に撒き、壮絶な最期を遂げた。直ちに火が消されたが、そこには二体の黒焦げ死体があるだけだった。こうして反乱は終結した。
処罰[編集]
反乱者の捜索は熾烈を極め、多くの門弟が捕らえられたが、大塩父子の生存説が市中に出回り、奉行も襲撃を恐れて市中見回りができなかった。そこでそのような噂を打ち消すために大塩父子以下多数の参加者を磔刑にすることにした。しかし、ほとんどの参加者は獄死して死体は塩漬けにされており、その磔刑は塩漬け死体を磔にする異様なものだった。
影響[編集]
この反乱は小規模なもので、怪我人はそこそこいたものの、死者に至ってはわずか3名という反乱というにもどうかといえる程度の規模のものであった。ただし、この反乱は規模の問題では無く「幕府の元与力が民衆と結託して反乱を起こした」という信じ難い事実であった。本来ならば幕府に尽くさないといけない旗本が民衆と共に反乱を起こした、ということで、その後の幕府に対する政治腐敗に対する批判の目を民衆に覚醒させるには十分すぎる出来事だったのである。
なお、二体の黒焦げ死体は発見されたが果たしてそれが大塩かどうかの判別がつかなかった。そのためあれは大塩ではなく影武者だという説が上がり、「大塩平八郎は死んでいない」「大塩と格之助は国外に逃亡した」などという生存説が飛び交い、幕府はそれを否定するのに躍起になった。反乱を起こされて家を焼かれたはずの貧民ですら、大塩を恨むどころか「大塩様」「平八郎様」とその遺徳を偲ぶ者が後を絶たなかった。そのため、幕府は格之助や大塩のスキャンダルをでっちあげて大塩が密かに悪行を重ねていたなどと言いふらしもしたが、誰も信じないばかりか大塩の知人からも逆に幕府の態度を批判される事態にまでなった。
この大塩平八郎の乱の影響を受けて、反乱から4か月後の6月には国学者の生田万が「大塩門弟」などと称して越後国柏崎で反乱を起こしている(生田万の乱)。