奈良時代
奈良時代とは、日本の時代区分である。
概要[編集]
8世紀の、平城京に都がおかれた時代を指す時代区分である。唐に習って制定し、以降1000年以上日本の基本法であった大宝律令が最も機能していた時代で、遣唐使の派遣により中国風の文化が広まっていた。一方、墾田永年私財法が制定されるなど、中世の荘園社会を迎える徐々に築かれていた。
期間[編集]
始まり[編集]
終わり[編集]
長岡京遷都の784年か、平安京遷都の794年か、いずれかというところだろう。時の天皇は桓武天皇。
推移[編集]
694年に、日本初の本格的な唐風の都城である藤原京が建設されたが、710年に平城京に遷都となった。以前は奈良盆地の南端、明日香村あたりに都が置かれることが多かったが、平城京は奈良盆地の北端に建設された。平城京の町割りに加え、701年に制定された大宝律令も唐の法律に習ったものであり、唐風の文化が日本に根付いた。また、奈良時代の100年弱の間、遣唐使が9回にわたって派遣され、唐の進んだ文化を積極的に輸入していた。
奈良時代初期は、土地は基本的に国のものであった。しかし、三世一身法や墾田永年私財法により、開墾を積極的に進めるとともに、開墾した土地の私有が認められる様になった。これは、平安時代以降に荘園という形で発展していく。
第45代聖武天皇は、仏教に深く帰依した。この影響で、全国に国分寺が建設され、奈良には東大寺の大仏が建立された。
770年、聖武天皇の娘である称徳天皇の崩御により、皇統が98年ぶりに天武天皇の家系から天智天皇の家系に移る。50代桓武天皇の時代に、長岡京、後に平安京に遷都し、奈良時代が終わることとなった。
宮都[編集]
平城京。現在の奈良市であるが、奈良市中心街は平城京の東の外れであり、近鉄奈良線の大和西大寺-新大宮間あたりが平城京の中心である。
奈良時代の日本国外[編集]
中国は、唐の時代であった。玄宗も奈良時代の皇帝であり、唐の最盛期を迎えたが、楊貴妃に溺れて政治を顧みなくなり、唐の衰退が始まった。
インドは、カシミールや南インドのラーシュトラクータ朝が争う群雄割拠の時代であった。
中東は、ウマイヤ朝が広大な領土を持っていたが、滅亡し、アッバース朝が取って代わることとなった。
ギリシャや小アジア(現在のトルコ)は、ビザンツ帝国が支配していた。