仲恭天皇
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、日本の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。鎌倉時代前期の皇族。諱は懐成(かねなり)。
父は第84代天皇の順徳天皇[1][2]。母は九条良経の娘で中宮・九条立子(東一条院立子)[1][2]。
生涯[編集]
順徳天皇の第4皇子[1]。誕生の翌月の11月26日[2]に立太子される[3]。
承久3年(1221年)4月20日に父帝が祖父の後鳥羽上皇による承久の乱と呼ばれる討幕計画に加担する際、譲位されて閑院内裏[2]において即位した[3]。わずか4歳のため、伯父の左大臣である九条道家が摂政に就任した[3][2]。承久の乱の際には母親の実家である摂政・九条道家の九条屋敷に難を逃れていた[3]。
ところが承久の乱は上皇方の大敗に終わり、京都に鎌倉幕府軍が入ると仲恭天皇は執権・北条義時によって皇位を廃されることになり、仲恭天皇は7月9日[2]に後堀河天皇への践祚を余儀なくされた[1][4][3]。これは乱後に義時が後鳥羽上皇の血筋を皇位につけないようにするための策でもあった。
わずか70日余りで廃された上に即位式も大嘗祭も行なわれていなかったので九条廃帝、半帝などと称されて当時は天皇としての扱いを受けておらず、天皇として認められたのは明治3年(1870年)7月における明治政府による追諡号においてであった[4][3][5][2]。この際に仲恭の追諡号に関しては幼いという意味の冲の字を選んだ冲恭天皇という案もあったとされている[5]。
乱後は九条屋敷や東一条院に住むことになり、10月21日に西七条御所に遷御する[2]。そのまま13年後である天福2年(1234年)5月20日にわずか17歳の若さで崩御した[4][5][2]。陵墓は京都府京都市伏見区深草本寺山町九条陵にある[4]。
墓所[編集]
- 九条陵(くじょうのみさぎ)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年
- 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2006年10月、ISBN 456966704X)
- 米田雄介『歴代天皇 年号辞典』(吉川弘文館、2003年)
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