執権
執権(しっけん)とは、主にナンバーワンを補佐するナンバー2を指す地位を意味する。いわゆる「執」事の「権」力に由来する。鎌倉幕府で北条氏が世襲した執権で有名である。
概要[編集]
執権という役職は、朝廷において上皇や法皇などに仕えて院政における実務を担当する院司の別称であった。
この役職が一躍有名になったのは、鎌倉幕府においてである。鎌倉幕府の初代征夷大将軍・源頼朝の死後、外戚で有力御家人であった北条時政・北条義時らは幕府の権力を掌握するために比企能員、畠山重忠、和田義盛ら有力御家人を次々と排斥し、幕府の政所別当と侍所別当(つまり政治・財政のトップと軍隊・警察組織のトップ)を兼任する形で掌握し、事実上幕府の最高権力者に君臨した。
初代執権は北条時政とされ、頼朝の長男・源頼家を排斥した時に執権に就いたというのが現在では通説となっている。鎌倉幕府の執権職は北条氏が代々世襲し、北条氏の執権による幕政を一般的に「執権政治」(しっけんせいじ)と呼んでいる。
北条氏自身は将軍に就こうとせず、あくまで征夷大将軍を補佐するナンバー2の執権に止まったとされていたが、事実上は鎌倉幕府の最高権力者であり、時政在任時に早くも源氏傍系の平賀朝雅の将軍擁立を画策し、源実朝で源氏将軍が断絶した後は、代々、摂関・宮将軍を幼少で擁立し、成年で邪魔になると意のままに排斥を行なっている。
執権は16代(現在では17代説も存在する)続いたが、鎌倉幕府末期は、執権すら政治権力を握った内管領などをコントロールできずに名目上の存在に成り下がったまま、幕府の滅亡を迎えている。
鎌倉幕府滅亡後の建武新政下では足利家に執事が置かれ、室町幕府では管領が相当の役職とされる。その後も、大名家において当主に次ぐナンバー2の実力者を「執権」と呼ぶ場合があり、記録上でも執権と記されていることもある。