朱全忠

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朱 全忠(しゅ ぜんちゅう、大中6年10月21日852年12月5日) - 乾化2年6月2日912年7月18日))は、中国末期の群雄。後に唐から禅譲を受けて皇帝即位し、五代十国の五代の最初の王朝である後梁の初代皇帝となる(在位:907年6月1日 - 912年7月18日)。廟号は太祖(たいそ)。

諱は初め(おん)であったが、黄巣の乱の際の功功績により唐の皇帝より全忠の名が下賜され、さらに皇帝即位後に(こう)と改めた。唐から禅譲を受けたものの中国を統一するだけの勢力を持たず、また次第に老齢から節度が乱れて晩年は衰退傾向にあり、最期は息子の朱友珪によって殺害された。

生涯[編集]

宋州祷山(現在の江蘇省)の出身。父親の名は朱誠という。父は早くに死去したので、母親に伴われて寄食生活を送った[1]

黄巣の乱が起こると朱温は反乱軍に参加して幹部にまで出世する。しかし黄巣との間に次第に齟齬をきたすようになり、また唐軍の反撃により黄巣軍の形勢が不利になってくると朱温は黄巣を見限って唐に帰順する。この帰順を当時の唐の皇帝・僖宗は大いに喜んで朱温に忠義の士として全忠の諱を与えた。さらに宣武節度使に任命され、李克用と共に黄巣の討伐に貢献した[1]

この黄巣の乱で唐の勢力は全土に及ばなくなり、以後は群雄が覇権をめぐる過程で皇帝の権威を利用しながら争う時代に突入し、その中で朱全忠は梁王に封じられて中央の支配を確立。李克用らと争いながら中央で勢威を振るっていた宦官貴族勢力を一掃し、904年には昭宗を殺してその息子である哀帝を擁立し、そしてこの哀帝から907年に圧力をかけて禅譲を行なわせ、自ら皇帝に即位した[1]。哀帝は翌年に殺害した。

朱全忠は忠誠を誓う対象を無くして自ら皇帝になったため、全忠の名前を捨てて晃と名乗る。朱晃は年号を開平と定め、首都を開封において中国全土に号令をかけるが、唐末期に既に自立していた晋(後の後唐)の李克用をはじめ、呉越銭鏐荊南高季昌前蜀王建らは全員その号令に従わず次々と各自で国を建てて行き、ここに五代十国の争乱が開始されることになった[1]

朱晃は中国統一のため、財政を仮子の朱友文に、民政や軍事を宰相敬翔に委ねて国力増強を図りながら、李克用・李存勗父子や楊行密楊渥父子と抗争を繰り広げるも戦局は思わしくないばかりか、特に李存勗には敗戦を繰り返すばかりで次第に形勢が不利になる。しかも朱晃は女性関係に節度が無く、地方に送り込んでいた息子や仮子の妻まで自らの後宮に引き入れて関係を持つ有様であった。このような節度の乱れと老齢に差し掛かったためか、晩年の朱晃は洛陽で重病に倒れ、後継者に仮子の博王・朱友文を指名しようと都より召喚しようとしたが、それに代わって地方に送られようとした次男の郢王・朱友珪に反乱を起こされてしまい、912年に朱温は殺害された。享年61[2]

死後、朱友文も朱温殺害の罪を着せられて殺され、朱友珪が第2代皇帝に即位した[2]

人物像[編集]

唐の皇帝の殺害、簒奪をはじめ、黄巣を裏切ったり対立者を容赦なく滅ぼしたり、女性関係に対する節度の無さなど、朱全忠に対する人格的な評価は現在でも芳しくない。ただし唐の貴族・宦官勢力を一掃してそれまで政争の具になっていた両勢力を濁流に投じこんでやがてやって来る北宋への筋道を築き上げたのは朱全忠であるとされ、また即位後は農耕に尽力して民衆の税・労役の軽減に努めるなど[2]政治的な功績は非常に高く、人格面はさておいて政治家としては非常に優秀な人物として評価されている複雑な人物である。

宗室[編集]

后妃[編集]

兄弟[編集]

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朱全昱の子[編集]

朱存の子[編集]

名の表記は『新唐書』による。

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仮子[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P168
  2. a b c 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P169

参考文献[編集]

小説[編集]

  • 『朱温』仁木英之(著)、朝日新聞出版、2009年10月7日 - 学習研究社より発売された『夕陽の梨 五代英雄伝』を改題、1300枚を加筆して文庫化したもの。朱全忠の生涯を描いている。