古代日本の食文化

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古代日本の食文化(こだいにほんのしょくぶんか)について解説する。

歴史[編集]

旧石器時代[編集]

群馬県岩宿遺跡更新世ローム層から旧石器時代石器が発見された。岩手県花泉遺跡では約2万年前のハナイズミモリウシ(野牛)、原牛、ヤベオオツノジカヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウノウサギなどの化石が大量にまとまって発見された。これらの化石の骨は石器切るなどした解体痕がある。また研磨して先端を尖らせた骨角器と、敲石と思われる使用痕のある石器も発見された。これらから花泉遺跡は狩猟による動物を解体し食肉を得たキルサイトと考えられている。また長野県野尻湖立ヶ鼻遺跡も約4万年から2万4000年前のナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。東京都の野川遺跡などからは礫群や配石(置石)が発見されている。礫群は焼けたこぶし大の石が数十から百個ほど1ヶ所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見されている。礫群は食肉焼くのに用いたと考えられている。また木器樹皮などによる容器食品と共に礫群の焼け石を入れ煮るのに用いたとも考えられている。当時の日本列島は大部分が亜寒帯性の針葉樹林が広がっていて、植物性の食品は乏しく漁撈も未発達なため、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型哺乳類を主とした狩猟に依存した生活だったと考えられている。哺乳類などの動物フグなどののあるものが少なく、内臓筋肉皮膚脂肪血液骨髄脳髄など、などを除けば、大部分が可食部である。寄生虫微生物など病原体の問題もあるが、でも食べることができる。レバ刺しカルパッチョユッケタルタルステーキのような料理や、が使える状況であれば礫石などを利用して、石焼蒸し焼きなどの焼肉のような料理が考えられている。またさいぼしジャーキーなどのように干肉にして保存食にしたとも考えられている。[1][2][3][4][5]

縄文時代[編集]

約1万年前に地球規模の気候変動で氷期から間氷期に変わり完新世が始まる。日本列島では温暖化に伴い針葉樹林は北海道高山帯に限られ、本州の東側にブナナラクリクルミなどの落葉広葉樹林が、本州の西側と四国九州南西諸島にはカシシイクスノキなどの照葉樹林が広がる。ナウマンゾウやヤベオオツノジカなど大型哺乳類は絶滅あるいは生息しなくなり、ニホンジカイノシシなど中小哺乳類が増える。また海面の上昇に伴い対馬海流の流量も増え、日本海側も太平洋側と共に暖流寒流の交わる良漁場となる。このような風土の変化に伴い縄文時代が始まり磨製石器と共に縄文土器が用いられる。世界的には中石器時代あるいは新石器時代に相当するが、農耕牧畜は普及せず、採集に加えて狩猟漁撈を主とする生活である。[1][2][3][6]

土器を用いて煮ることが発達し、採集による植物性の食品の利用が増えた。クルミドングリクリトチなどの堅果類竪穴式住居の近くに穴を掘り備蓄したものが多く出土している。クルミは脂質を多く含みでも食べられるが、クリやドングリやトチはデンプンを多く含む。生のベータデンプンは消化されにくいため、とで結晶構造を破壊し、アルファデンプンに変える必要がある。またドングリはタンニンを含む種類が多く、石皿磨石で潰したり粉にし、水に晒したり茹でたりして灰汁抜きをした。トチは非水溶性のサポニンやアロインを含み、を加えて煮ることで灰汁抜きをした。またクズワラビヤマノイモウバユリヒガンバナなど野生の類も、アルカロイドなどのを水に晒すなどして除去し、デンプンを利用したと考えられている。動植物の遺物による調査と、遺骨コラーゲン同位体比による調査から、これら植物性のデンプンから熱量の大半を得ていたことが分かる。植物性の食品の利用が増えたのに伴い、従来の食肉レバー血液などから摂取していたの必要性が生じ、海水を土器で煮る製塩も行われた。日本原産の香辛料であるサンショウを入れた土器も発見されている。また栽培作物であるソバオオムギアワエゴマリョクトウヒョウタンなどが、少ないながら出土している。[1][2][6][5]

狩猟による食肉は大半がイノシシニホンジカによるもので、その他カモシカエゾヒグマツキノワグマタヌキアナグマなど様々である。またキジカモガンなどの鳥類も対象とした。狩猟は縄文時代に登場した弓矢によるものを主とし、落とし穴なども用いた。またイヌ飼育されており、猟犬として用いたと考えられている。北海道ではアザラシトドオットセイなどの海獣などを対象とし、回転式離頭銛が用いられた。イノシシは伊豆諸島や北海道から遺物が発見されていて、移動や飼育、動物儀礼などについて議論されている。[1][2][3]

漁撈による魚介類は、貝塚を主に形成するハマグリアサリカキシジミなどの二枚貝が多い。内湾性のスズキボラクロダイコチなどを対象とし、骨角器によるヤス石錘を利用した漁網も用いた。またイワシサバなど小魚を対象とし、漁網によるものもある。東北地方三陸沿岸では外洋性のマグロカジキを対象とし、骨角器による釣り針や、回転式離頭銛を用いた。九州北西部でも外洋性のマグロやサワラシイラサメを対象とし、骨角器による組み合わせ式釣り針を用いた。内陸河川でのサケマスも、北海道や東北地方では重要な食品であったとする考えもある。[1][2][3]

料理としては、堅果類などのデンプンをこねて灰の中で焼いたビスケットクッキーのような縄文クッキーが出土している。また土器の利用により、デンプンを団子状にして煮たすいとんのようなものや、水で溶いて煮て状にしたものも考えられている。食肉や魚介類はすいとんや粥に混ぜたり、汁物吸物のようなや、鍋料理のようなものが考えられている。[1][2][5][7]

採集や狩猟や漁撈は自然によるもので、四季のある日本列島では季節性が表れる。宮城県里浜貝塚における調査では、春にはアサリや木の芽や若草などの山菜を採集し、夏にはマグロやアジサンマなどの漁撈と海水による製塩、秋にはサケの漁撈と堅果類の採集、秋から冬にかけてニホンジカの狩猟と土器の製作と、季節に応じた食生活を行っていた。また食生活は、自然だけでなく人口密度なども含めた生態学的条件でも異なり、さらに北海道礼文島の船泊遺跡と浜中2遺跡のように、同時期同地域にあっても集団の歴史的や社会的な文化にもより異なる。沖縄諸島奄美諸島ではこの時代を貝塚時代の前期ともよび、伊波式土器や荻堂式土器を伴う独自の文化でもある。また沖縄県波照間島の下田原貝塚では、八重山土器やピラ型石器、イノシシの骨が出土していて、この頃先島諸島では漁撈とともにイモやアワ畑作農耕やイノシシの飼育が行われていたと考えられている。この文化は、九州や沖縄本島などからの縄文文化の影響はほとんど受けず、台湾中国大陸江南の影響を受けた独自の文化と考えられている。このように地域や時代、集団によって多様な食文化を伴う縄文時代は、様々な定義があるが縄文土器を基準にして、北海道から沖縄県まで日本列島のほぼ全域を対象とし、約1万6000年から1万2000年前に始まり、紀元前900年から紀元前400年の頃まで続いたとされる。[1][2][3]

弥生時代[編集]

稲作と栽培種イネは、アフリカニジェール川周辺に起源するアフリカイネと、アジアに起源し世界各地に伝搬したアジアイネとの2つがある。中国大陸長江流域では、紀元前1万年頃のイネの資料の発見、紀元前6000年頃の湖南省彭頭山遺跡から籾殻の混じった土器の発見、紀元前5000年頃の浙江省河姆渡遺跡が発見されている。河姆渡遺跡は約400平方メートルの範囲に籾殻などが堆積していて、なども伴うほぼ完成された水田稲作が行われた。紀元前3000年頃の浙江省銭山漾遺跡などの良渚文化に続き、紀元前1000年頃の江南江淮地域に幾何学印文陶文化が表れる。 また黄河流域では、紀元前1万年頃アワキビの利用があり、紀元前6000年頃中流域でアワと農具が発見で栽培が考えられ、紀元前3000年頃に長江流域からのイネと西アジアからのムギが伝来し、紀元前2000年頃にマメの栽培で五穀が揃うことになる。[1][2][6]

朝鮮半島では紀元前4000年頃の黄海北道知塔里遺跡から炭化したアワもしくはヒエの粒の発見、紀元前2000年頃の京畿道欣岩里遺跡から陸稲と思われる粒がオオムギやアワなど作物と共に発見、紀元前8世紀頃には忠清南道松菊里遺跡などで炭化米が発見、紀元前7から6世紀の無去洞峴遺跡などから水田が発見されている。[1][2][6]

中国大陸東北部とロシア東部では、紀元前1000年頃のアムール州黒竜江省アムール川沿いや沿海地方では、ウリル文化やヤンコフスキー文化や鶯歌嶺上層文化で、それぞれアワやキビの栽培ブタ飼育する農耕が行われた。 [1][2][6]

日本列島では、縄文時代の北海道で、早期の中野B遺跡からヒエ類が発見、前期の美々貝塚遺跡から畑跡と考えられる遺構が発見されている。また中期の臼尻B遺跡からアワの発見、晩期の塩屋3遺跡からオオムギとアワが発見されている。これらの縄文時代の北海道から出土する穀物類は、沿海地方などからの伝搬が考えられている。縄文時代中期以降の本州や九州などの遺跡では、稲や大麦、小麦、アワ、ヒエ、キビなどが発見されて、福岡県のクリナラ遺跡からは畑跡が発見されている。縄文時代に大陸から畑作物としてイネを含めた穀物が伝搬し、陸稲栽培を含む畑作が行われたと考えられている。また福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡などで、用水路が整備された縄文水田が、木製の石包丁などの農具を伴い発見されている。この九州北部で発見された整備された水田や農具を伴う完成された水田稲作文化は、陸稲栽培を含む畑作が発展したのではなく、紀元前2000年紀後半から紀元前1000年紀前半にかけて中国大陸の江南や江淮地方に展開していた金石併用期の幾何学印文陶文化の前期における完成された水田稲作農耕文化が、朝鮮半島を経て、あるいは東シナ海から直接に、九州北部に移民と共に伝わったと考えられている。[1][2][6]

九州北部に伝わった水田稲作文化は、急速に西日本を中心に近畿地方まで伝わるが、東日本には伝わらず停滞する時期がある。これは西日本の照葉樹林に比べて東日本の落葉広葉樹林の方が食品が豊富だったこと、西日本を中心に陸稲栽培を含む畑作が普及し水田稲作を受け入れやすかったこと、当時の稲が寒冷地である東日本に適していなかったことなどが考えられている。紀元前後になると寒冷地に適した稲の品種などにより、本州最北端の青森県まで水田稲作文化が伝わる。紀元前後にはまた製の農工具が普及した。日本列島の水田稲作文化が普及した時代は、従来の縄文土器と比べて薄く整形されより高温で焼かれた弥生土器を伴っていて、弥生時代と呼ばれる。弥生時代は紀元前900年頃に始まり紀元後400年頃まで続いたとされる。一方で寒冷な北海道では、この時代には稲作文化がおよばず、縄文時代から続く採集や狩猟や漁撈による文化が続き、続縄文時代と呼ばれ紀元1000年頃まで続いた。また沖縄など南西諸島では、貝塚時代の後期とも呼ばれ、これは紀元1300年頃まで続いた。[1][2][6]

弥生時代の日本列島の様子は、漢書地理志で紀元前後には100あまりの小国が分立していたと記録されている。『魏志倭人伝では紀元後239年に複数の首長国がある中卑弥呼の統治した邪馬台国に朝貢し、また魏の使節が訪れたと記録されている。魏志倭人伝ではまた、「水に潜り貝や魚を採る」「稲や粟を栽培する」「温暖な気候で通年生野菜を食べる」「生姜や柑橘類、山椒、茗荷があるが料理に利用しない」「木や竹の器を用いて手で食べる」「飲酒を好む」など料理や食事に関する記録もある。[1][2][6]

アジアイネは、丈が高く熱帯に適し寒さに弱い長粒で粘りが少ないインディカ種と、丈が低く低温にも対応し短く丸みのある粒で粘りの多いジャポニカ種とに大別される。弥生時代に日本列島に伝わった稲はジャポニカ種であり、11世紀以降になってインディカ種が何度か持ち込まれたが現在に至るまで広く普及はしていない。 またインディカ種とジャパニカ種と共に、デンプンのひとつであるアミロースの含有量で、糯(もち)粳(うるち)とも大別される。弥生時代に日本列島に伝わったイネは、中国で粳の栽培が先行したこと、記紀などに糯やが登場しないこと、糯という字が奈良時代の「正倉院文書尾張正税帳」が初出であること、などから粳であったと考えられている。しかし縄文時代の陸稲などは中国南部や東南アジアから糯が伝わり、弥生時代には糯と粳が混在していたという考えもある。[1][6][8]

水田稲作が普及しても農耕のみを基盤とした訳ではなく、農耕を行いながら従来の狩猟採集漁撈も行っていた。またプラント・オパールの調査から、全面的に稲を長期にわたって栽培した訳ではなく、キビ属なども栽培され生産量も多かったと考えられている。種子の遺物からも雑穀などと呼ばれるアワヒエキビそして麦などの穀物や、豆やソバなどの準穀物も多い。またドングリなどの堅果類は稲を超えて多く出土する。猪と鹿は引き続き狩猟の重要な対象であったが、田畑を荒らす害獣駆除の側面もあったと考えられている。また鹿に対する猪の割合が増え、頭蓋骨の変化から猪が家畜化されとなったものも含まれていると考えられている。豚に加えてが持ち込まれ飼われていたが多くは出土せず、また鶏は食べる対象では無かった。イヌは猟犬としても用いられたが、埋葬されず解体痕などから食用の対象にもなった。豚や牛、馬などの飼育は、農耕の傍らの小規模なものでの利用などを目的としたものではなく牧畜ではない。漁撈では従来のものに加えて、水田や用水路などでコイフナナマズドジョウタニシなどを対象とした淡水での漁撈が行われる。また内湾での漁撈では管状土垂を用いた網漁や蛸壺漁などが行われるが巨視的には衰退する。また東日本太平洋側や西北九州での外洋漁撈への特化拡散もみられる。農耕による環境や社会の変化が狩猟や漁撈にも変化をもたらしている。[1][2][6][3]

料理は米などの穀物を炊いたがある。弥生土器には外側に煤が内側に米粒が付いたものが出土することから、現在と同じ炊き干し法による飯である。米は竪杵による精米で、現在販売されている籾殻をはずし果皮に覆われた玄米とは異なり、9分撞き程度であったと考えられている。また飯を唾液により糖化した口噛み酒やを利用したりしてを醸造した。フナなどで塩辛魚醤なれずしなども作ったと考えられている。弥生土器の中には煮炊きに用いた鍋などだけでなく、食器の形状のものも出土する。[1][7][6][3]

遺跡からはドングリが最も多く出土するが、農耕が普及し米や粟(あわ)を主食にし、鶏獣肉、魚、海藻、野菜、山菜を副食にするという日本食の基本ができあがってきた[9]。家畜として導入された豚を食べることは忌避され、鶏も時告鳥(ときつげどり)として別格にあり、卵すら食用にしなかった[10]。次第に食事は、神事の御饌(しんせん/みけ)として供えられ、神事の後に直会(なおらい)にて神主や村人が一緒に食べ、神人供食の文化が起こった[10]

古墳時代[編集]

3世紀に奈良県纒向遺跡に登場した巨大な王墓前方後円墳などの古墳は、各地に広がり古墳時代と呼ばれる。6世紀後半から7世紀にかけて水田の大規模な開発が近畿地方を中心に行われた。5世紀中期の高度な技術による鉄製U字型先や曲刃、6世紀後半に登場し代掻きに用いる馬鋤や7世紀に登場し耕起に用いるによるの利用、7世紀初頭の大阪府狭山池などため池の築造や長大な堤防による河川の制御、7世紀後半の条里制の登場など、これらが背景にある。古墳の周囲や上に並べられた埴輪には、鹿や猪、犬などの狩猟を描いたもの、馬や鶏を形取ったものなど、支配者による狩猟や乗馬があった。朝鮮半島から伝わった須恵器にはが多数発見されることから、米を蒸しおこわにしていたと考えられている。また従来のに変わってが住居に設けられる。[1][11][6][3]

脚注[編集]

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 石毛直道『日本の食文化史』岩波書店 ISBN 978-4-00-061088-9
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 佐々木高明『日本の歴史1 日本史誕生』集英社 ISBN 4-08-195001-6
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 西本豊弘編『人と動物の日本史1 動物の考古学』吉川弘文館 ISBN 978-4-642-06275-6
  4. 竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ』講談社 ISBN 978-4-06-258496-8
  5. 5.0 5.1 5.2 『講座 食の文化 人類の食文化』 味の素食の文化センター ISBN 4-540-98052-1
  6. 6.00 6.01 6.02 6.03 6.04 6.05 6.06 6.07 6.08 6.09 6.10 6.11 木村茂光編『日本農業史』吉川弘文館 ISBN 978-4-642-08046-0
  7. 7.0 7.1 『講座 食の文化 日本の食事文化』味の素食の文化センター ISBN 4540980882
  8. 渡部忠世、深澤小百合『もち(糯・餅)ものと人間の文化史89』法政大学出版局 1998 ISBN 4-588-20891-8
  9. 橋本直樹 『日本食の伝統文化とは何か―明日の日本食を語るために (生活文化史選書)』 雄山閣、2013年、10-15、49-50。ISBN 978-4639022923
  10. 10.0 10.1 原田信男 『和食とはなにか 旨みの文化をさぐる』 KADOKAWA/角川学芸出版〈角川ソフィア文庫〉、2014年、7-13、33、48。ISBN 978-4044094638
  11. 石毛直道、杉田浩一 『調理とたべもの (講座食の文化;第3巻)』 味の素食の文化センター、1999年。ISBN 4-540-98218-4