邪馬台国

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

邪馬台国(やまたいこく)とは、3世紀頃に日本列島に存在していたとされる国家である。有力な所在地には九州説と畿内の大和説がある。

記録[編集]

中国の歴史書魏志倭人伝(正式な署名は『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)に記録が残るが、日本側には邪馬台国に関する記録は存在しない。

政治[編集]

卑弥呼という女王が邪馬台国を統治していた。弟が卑弥呼を助けていた。男の王の治世には国が乱れていたが、女王卑弥呼により治められると安定したという。卑弥呼が逝去したときには、倭人は直径百余歩の塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされる。その後、再び男の王になったが、争いが起き千人余が死亡した。そこで台与(壱与)という女性が王になった。

邪馬台国への経路と比定地[編集]

原文 方角 距離 比定地 遺跡等
帯方郡 出発点 出発点 楽浪郡治(平壌)の南方 ソウル付近説、平壌付近説
句邪韓国 南と東 七千余里 韓半島の南 慶尚南道釜山・金海忠武説、巨済島説
対海國 南と東 渡海、千余里 対馬国 対馬の山辺遺跡
一大國 渡海、千余里 壱岐国 壱岐島の原の辻遺跡
末盧国 不明 千余里 松浦半島 唐津市周辺
伊都国 東南陸行 五百里 糸島平野 福岡県糸島市三雲・井原遺跡
奴国 東南 百里 那津 筑前国儺縣、春日市、福岡市
不彌國 百里 福岡県飯塚市立岩遺跡、光正寺古墳など
投馬國 水行二十日 不明 周防国佐婆郡玉祖郷説、筑後国上妻下妻郡説など
邪馬壹國 水行十日陸行一月 未定 奈良県桜井市箸墓古墳、他多数


その他[編集]

魏志倭人伝に記されている距離は「一海を渡る、千余里」など切りのよい数字ばかりであることから、正確に測量したものではなく、超概算の数字といえる。当時の中国では「一里=400〜500m」という「長里」であり、古代朝鮮では一里は現代の400mである。誇張されている数字とも見られるが、ある程度の参考になる。邪馬台国に至るまでに通過する9ヶ国(邪馬台国を含む)の内6ヶ国まで、その比定地は統一された見解があるため、距離の問題に悩む必要はなくなる。経路の実際の距離と魏志倭人伝の距離を比較すると、1里は130m前後とも考えられる。方角は当時の地理観の影響を受け、不正確の可能性がある。

邪馬台国論争[編集]

300年前から続く邪馬台国論争がある。邪馬台国は日本の何処にあったかということだけでなく、そこに至る歴史過程をどのように組み立てるかが大きく異なることになる。2022年現在に於いていずれも不明である。

九州説[編集]

九州説は1778年、本居宣長が「馭戎概言」が提唱したのが最初である。1910年、東京帝国大学の白鳥庫吉が「倭女王・卑弥呼考」により九州説を唱えた。 九州には吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡などがある。漢から贈られた金印も出土している。


畿内説[編集]

京都帝国大学の内藤湖南らは畿内説を唱えた。以来、京都大学は畿内説が多い。畿内説にも琵琶湖湖畔、近江説などがあるが、纒向遺跡(奈良県桜井市)が最有力候補と考えられている。

その他の説[編集]

邪馬台国を四国、東北に比定する説もあるが、考古学的裏付けに乏しい。沖縄説も同様である。

邪馬台国は韓国にあったとする説もあるが、これも裏付けに乏しい。