卑弥呼

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卑弥呼
ひみこ
登場作品 魏志倭人伝
性別 女性
時代 弥生時代
生年月日 不明
死没日 242年~248年
肩書き 倭国の女王
墓所 箸墓古墳?
前任者 不明
後任者 壱与
宗教 鬼道
配偶者 未婚

卑弥呼(ひみこ、ひめこ)は魏志倭人伝によると、弥生時代の倭国(日本)の女王である。当時は倭国に約30国があり、その中の邪馬臺國/邪馬壹國の女王が共立されて、倭国全体の女王になったとされる。

概要[編集]

魏志倭人伝によれば、次のような記載がある。倭国にはもともと男王がおり、70年から80年間統治していたが、互いに戦乱状態が続いていたため、卑弥呼を女王として共立して戦乱は治まった。卑弥呼は鬼道による祭祀を行い、人々を惑わしていた。高齢で夫はいないものの、血縁の弟が補佐して国を治めている。王となってからは顔合わせした人は非常に少ない。侍女は千人いるが、男子一人が飲食物を運び、卑弥呼の言葉を伝え、卑弥呼の居所に出入りしている。宮殿や高楼には城柵で厳重に警備され、常に兵士がいて、武器を持ち警護している。

なお「弟」だけでは、必ずしも血縁でない場合があるが、原文は「男弟」なので、血縁のある(親が同じ)弟という意味となる。

倭国動乱[編集]

中国側史料によれば、倭国動乱の時期は二世紀後半とすることが共通している。『後漢書』(卷85、東夷列傳第75)に「桓帝・霊帝の治世の間」に倭国が大いに乱れ、王はいなかったと書かれている。その後、三世紀前半となって卑弥呼が鬼道を用いて信仰されるようになり、諸国から共立されて国を平和に導いた。「桓帝・霊帝の治世」とは、桓帝後漢の第11代皇帝であり、治世は西暦146年8月1日から168年1月25日(永康元年12月28日)までである。霊帝は後漢の第12代皇帝であり、治世は168年から189年5月13日(中平6年4月11日)までである。両者を合わせると、西暦146年から189年の間となる。

部族同盟か地域国家同盟か[編集]

「共立」とは部族同盟なのか、それより進んだ地域的国家同盟なのか、結論は出ていない。 上田正昭は民会的要素が薄いため、単なる部族同盟ではなく、王族や諸官の合議により王が決まったものとしている[1]

シャーマンか[編集]

卑弥呼の鬼道に関しては諸説がある[2]

  1. 心霊を憑依させ、宣託するシャーマン(巫女)
  2. 鬼神(農耕神)を祀る司祭者
  3. 中国の民俗的な道教の一種である五斗米道や太平道(宗教団体)の教祖
  4. 埋葬・慰霊・供養など使者儀礼を行うもの
  5. 聖霊・死霊によっておこる病気の治癒祈祷を行う祈祷師

しかしながら、卑弥呼はシャーマン的性格があるが、単なるシャーマンではないという説が多数である。 鬼道に仕えた司祭的機能と「親魏倭王」として君臨した女王の二面性があった[1]

小林敏男は卑弥呼を南島のノロに相当する司祭者とする。ノロは地位継承者として代々の司祭者であり、壱与との関係を考慮すると、司祭者を出す血筋を持った家柄とする。卑弥呼がシャーマンだとしても、託宣神が何かはいまだ十分に検討されていないと指摘している[2]

鬼道とは[編集]

古代史研究者の三品彰英は『邪馬台国研究総覧』の説明によると鬼道に事(つか)えるとは神 霊と直接に交わることであり、卑弥呼のシャーマン的特徴が表れているとする。 中国の研究者である王明は『抱朴子内篇校釋』の序文で、民間道教と貴族道教に区分し、 民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし、貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質とした[3]。 『晋書』には鬼道の記述があり、道士・李脱は妖術によって衆を惑わし、自ら八百歳であ ると称し、李八百と号したとされる。中州より建鄴に赴き、鬼道をもって病を療し、また 人を官位につけた。その時の人々はこれを信じ使えたという。 これらのことから、卑弥呼が何らかの治療行為を行った可能性が考えられる。

外交的手腕[編集]

卑弥呼は外交的手腕に優れており、何度も使者を中国に派遣している。「親魏倭王」の称号を得ており、狗奴国と戦乱状態になったとの報告を中国に行っている。

西暦 中国歴 出来事
238年 景初2年 大夫難升米らを魏に遣わす、魏から金印紫綬と銅鏡100枚を得る。
240年 正始元年 帯方郡太守弓遵は建中校尉梯儁らを倭国に遣わし、詔書・印綬・刀・鏡を倭王に与える。
243年 正始4年 倭王は大夫伊聲耆・掖邪拘ら8人を魏に遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・拊短弓・矢を献上した。
245年 正始6年 難升米に黄幢を賜い、帯方郡に付して仮授した。
247年 正始8年 卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と不仲のため、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態を説明した。
魏は塞曹掾史の張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄をつくり告諭した。
張政らは卑弥呼の次の女王・壱与を檄をもって告諭した。
266年 泰始2年 倭の女王、使者を遣わして、西晋に入貢する。

卑弥呼の死去[編集]

247年に使者を派遣しているので、派遣開始時は存命であったと推測される。張政が倭国に到着したときはすでに死亡しているため、247年の戦乱で死亡したとも考えられる。 死後の径100歩あまりの塚を築造した。徇葬者は男女の奴隷が百余人いたとされる。次に男王を立てたが、国中が不服のため再び動乱が起き、1000人が殺された。そこで卑弥呼の宗女の壱与13歳を王に立てると、国が安定したとされる。(魏志倭人伝)。

脚注[編集]

  1. a b 上田正昭(1973)『日本の女帝』講談社
  2. a b 小林敏男(1987)『古代女帝の時代』校倉書房
  3. 王明(1980)『抱朴子内篇校釈』中華書局

関連項目[編集]