足利義尚
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足利義尚(あしかが よしひさ)は、室町幕府9代征夷大将軍である。
概要[編集]
1465年に母を日野富子として出生。子が産まれたため将軍職をめぐり足利義政や足利義視と口論になり、遂には応仁の乱に発展する。1473年に義尚は左中将となり征夷大将軍職についた。わずか8歳の時のことである。後見人として富子が将軍の政治をしたが、1480年に政治顧問は幼い将軍のためにと文明統一記などの帝王学の書物を読ませた。しかし大御所はやはり義政だった為1483年に義政が銀閣寺に隠れるまで政治を行えなかった。
1487年に義尚は守護大名一族の六角氏を討伐せよと命じ、大きな反感を買った。さらに義尚は幕府所在地をおよそ110年ぶりに移すこととし、近江国鉤に移した。しかしこれは管領の細川政元と対立し、将軍職もそう長くは続きそうになかった。1489年、義尚は酒と風俗に溺れ死亡した。享年24。これは室町幕府最年少での将軍の死亡年齢である。
義尚に後嗣がいなかったため、1年ほど父・義政が幕政トップに復帰した。