足利義晴
足利 義晴(あしかが よしはる、永正8年3月5日(1511年4月2日) - 天文19年5月4日(1550年5月20日))は、室町幕府の第12代征夷大将軍(在職:大永元年(1521年) - 天文15年(1546年))。父は第11代将軍の足利義澄で長男(弟・義維のほうが実は年長とする説があり、この場合は次男となる)。
生後数ヶ月で父を失い、播磨守護の赤松義村の下で養育される。第10代将軍・足利義稙が細川高国により追われた後、後釜の将軍として擁立された。その後、高国や細川晴元ら実力者の傀儡となりながらも、将軍としての権力を取り戻そうとしたが、晴元に敗れて近江に没落。そこで嫡子の義輝に将軍職を譲って大御所となる。その後は晴元と和睦して復権するが晴元の重臣・三好長慶に背かれて再度没落し、復権できずに近江で死去した。
略歴[編集]
幼少期[編集]
永正8年(1511年)3月、現在の滋賀県近江八幡市にあった近江水茎岡山城で生まれる。父は第11代将軍であった足利義澄。長男か次男かに関しては諸説がある。また、生母に関しても諸説がある。生後5か月後の8月、父の義澄は死去し、直後の船岡山の戦いで味方の細川澄元らの軍勢が大内義興・細川高国らの軍勢に敗れ、さらにその敗戦によりこれまで義晴らを庇護していた近江守護・六角高頼が第10代将軍・足利義稙に味方する動きを見せたため、義晴は近江を去り、播磨の守護であった赤松義村を頼って落ち延び、ここで庇護されて幼少期を過ごした。
ところが赤松義村の重臣で守護代の浦上村宗と義村の間で権力をめぐる対立が発生し、永正17年(1520年)には赤松氏と浦上氏との間で武力衝突が発生する。この際、義村はまだ幼児であった義晴を旗頭に利用して浦上氏を攻めた。これに対して浦上村宗は家臣で名将の宇喜多能家の活躍を得て赤松軍を撃退し、逆に播磨に侵攻するまでに至る。追い詰められた義村は8歳の息子・才若丸(のちの赤松晴政)に家督を譲ることを余儀なくされて隠居に追い込まれ、義晴は実質的に浦上村宗の庇護下に置かれることになる。
第12代将軍[編集]
永正18年(1521年)3月、第10代将軍として京都にあった足利義稙が管領・細川高国と対立して出奔し、将軍不在の事態となる。このため、高国は新将軍として義晴に白羽の矢を立て、浦上村宗に義晴の上洛を要請した。村宗はこの際、形式上の主君・赤松義村と和睦することを条件にして義晴の身柄を正式に引き取り、義晴を上洛させた。そして、村宗の率いる3万の軍勢に守られる形で播磨から7月6日に上洛し、7月26日には名を義晴と名乗った。さらに大永元年(1521年)12月24日には元服を迎え、その翌12月25日に第12代将軍として正式に就任した。
義晴は将軍職に就任した際にはわずか11歳であり、公家の鷲尾隆康は自身の日記で「不慮の御運で、誠に奇特だ(思いがけない運であり、とても不思議な事だ)」(『二水記』)と書いている。それまで何の実力も影響力も無かった少年がいきなり将軍に就任したことに、周囲も驚愕していたことがわかる事例である。
傀儡将軍としての近江逃走劇[編集]
将軍になった義晴であるが、わずか11歳の少年に政治能力があるはずもなく、実際には後見の細川高国の下で傀儡としてあるだけであった。ところが大永6年(1526年)に高国が一族の細川尹賢の讒言を受けて重臣の香西元盛を殺害する。これを知った元盛の兄・波多野稙通と弟の柳本賢治が激怒して高国に対して挙兵し、これに乗じる形で阿波でも細川晴元・細川澄賢・三好元長らが、足利義維を奉じて挙兵する。
大永7年(1527年)、高国は桂川原の戦いで反乱軍と戦うが敗北し、義晴はやむなく近江に逃走する。この間に義維を奉じた細川晴元らが堺に上陸し、義晴は将軍職を追われかけそうになるが、義晴は近江守護・六角定頼の支援を得て勢力を挽回し、さらに晴元と和睦交渉を進めて一旦は京都に戻った。ところが、義維らが堺に留まったために和睦交渉が暗礁に乗り上げ、享禄元年(1528年)に義晴は再度京都から逃走し、近江朽木谷の領主で室町幕府奉公衆である朽木氏を頼って落ち延びた。義晴はこの朽木で将軍として各地の諸大名に御内書を送ったりして、江州大樹(ごうしゅうだいじゅ)と称された。
一方、管領の細川高国は浦上村宗と連携して京都を奪回しようとしたが、享禄4年(1531年)の大物崩れで細川晴元・赤松晴政らに敗れて高国も村宗も死去してしまう事態となる。さらに晴元を支持する北近江の浅井亮政に朽木谷を攻められ、義晴は朽木谷から逃走して近江守護・六角定頼の下に逃げた。以後、義晴は定頼の居城である観音寺城の麓にある桑実寺において亡命幕府を開いて将軍として活動を続けている。
天文3年(1534年)、六角定頼の仲介の下、義晴は細川晴元と和睦して京都に戻る。以後しばらくは晴元の後見の下で義晴の時代が続くが、やはり義晴は成長すると晴元と対立し、近江逃走と復帰を続けた。
天文12年(1543年)に細川氏綱が晴元に対して反乱を起こすと、義晴は晴元を支持しているが、3年後に情勢が不利となった晴元は丹波に逃走し、京都は氏綱に制圧される。天文16年(1547年)にはこれを受けて身の危険を感じた義晴は慈照寺に逃れると、ここで晴元を見限って氏綱を支持する動きを見せた。これを知った晴元は四国の軍勢3万を三好長慶に命じて上陸させると、一気に氏綱側が不利となる。義晴は勝軍地蔵山城(北白川城・瓜生山城)を改修して三好長慶の侵攻に備えた。だが、義晴の裏切りに激怒してそれまで義晴を支持していた近江守護・六角定頼までが義晴を見限って晴元に味方したため、義晴は東西双方から圧力を受けるようになり、天文16年(1547年)7月19日夜に戦う事なく勝軍地蔵山城に自ら放火し、近江の坂本に逃走した。
なお、天文15年(1546年)に近江に逃走していた義晴は、ここで嫡男の義藤(後の義輝)に将軍職を譲って大御所となり、以後は幼少の義藤を後見する立場となっている。
近江坂本に逃れた義晴は、晴元と和睦して京都に帰還するが、天文18年(1549年)に細川晴元に対して重臣の三好長慶が反旗を翻した。これに対して義晴は晴元を支持しているが、江口の戦いで晴元は重臣の三好政長を失って京都に敗走し、義晴はこれを受けて義藤、そして晴元と共に近江坂本に逃走した。これにより京都は三好長慶の支配下に入り、三好政権が誕生する。
最期[編集]
義晴は三好長慶から京都を奪回するため、天文18年(1549年)10月に慈照寺の裏山に中尾城を築城する。
天文19年(1550年)3月、義晴は京都奪回のため、近江坂本から穴太にまで移動するが、ここで既に患っていた水腫が悪化して遂に倒れた。義晴は死期を悟ると、家臣団を集めて「義藤には天下を治むべき才能がある。幼い将軍に力をつけ、謀をめぐらして威を震わせよ」と遺言した。また、義晴は「(自分は)辰の日に辰の刻に死ぬ」と予言めいたことを常に言っていたという。
そして同年5月4日、近江穴太において死去した。享年40(満39歳没)。病死とする説が有力であるが、一説に重病に耐えかねて自害したとする説もある。
人物像[編集]
- 鷲尾隆康は義晴のことを「御容顔、美麗なり(美しい顔である)」と記録している。そのため、義晴はイケメンだった可能性がある(『二水記』)。
- 義澄までは正室を公家の日野氏から迎えることが足利将軍家では慣例化していたが、義晴はそれを辞めて五摂家の近衛氏から迎えている。また、中尾城の築城では天然の要害であり、わずか6年前に伝来していた鉄砲に対する防備まで考えていたなど、意外に先見性のある判断をしていることも注目に値する。
家族[編集]
父母[編集]
- 父 - 足利義澄(第11代将軍)
- 母 - 不詳
妻[編集]
子女[編集]
参考文献[編集]
- 『二水記』
日本史における歴代将軍一覧 |