足利義澄
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足利義澄(あしかがよしずみ)は、室町幕府第11代征夷大将軍である。
概要[編集]
1480年、堀越公方足利政知の子として産まれる。兄は北条早雲に自害に追い込まれた足利茶々丸。祖父は6代将軍足利義教。
幼少期は今川義元や足利義昭と同じで天竜寺の喝食として香厳寺の僧侶になり、清晃と名乗るようになった。10代将軍が指揮した第二次六角征伐で、義澄は六角氏側の細川政元側につき、征夷大将軍に就いた(明応の政変)。しかし本当の将軍は義稙と義澄とで二分され、義稙が本家足利将軍流派、義澄が傀儡型足利将軍流派の将軍となった(実質的には義澄が上洛していたから本当の征夷大将軍的な感じになっている)。
しかし後見人の政元が1507年に暗殺されると、近江を追われて最後備中国で死亡した。享年31。
尚、この後義稙は大内義興の支援により上洛を果たし、再び将軍となったが1521年に再度追放され、その後継に、義澄の子息の義晴が就き、その後、義澄流から12代以降の将軍が出ている。
関連項目[編集]
日本史における歴代将軍一覧 |