源実朝

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが源実朝の項目をおカタく解説しています。

源実朝(みなもとの さねとも)とは、鎌倉幕府3代目征夷大将軍歌人公卿である。父は源頼朝で、次男にあたる。母は北条政子。兄の源頼家の政治方法を覆し、和歌を急速に発展して北条義時と共に政治を行ったが、甥(頼家の次男)の公暁に心半ばで暗殺された。贈右兵衛佐、従五位上、右近衛少将、正五位下、右近衛中将、従四位下、従四位上、正四位下、従三位、右近衛中将、正三位、従二位、正二位、権中納言、左近衛中将、権大納言、左近衛大将、内大臣、右大臣。

生涯[編集]

征夷大将軍就任[編集]

1192年8月9日鎌倉にて産まれる。1203年比企一族の乱で頼家が失脚後、征夷大将軍職を与えられる。

幕府での関係[編集]

実朝は頼家と同じく、「政治面は義時に任せ、実朝は蹴鞠や和歌の文化面に目を向けすぎだ。」などのイメージが強いが、将軍親政を推進して、幕府としての地位を確立した。

官位の昇進[編集]

実朝は自分の代で河内源氏が終焉を迎えるのに気づいていた為、せめてでも自分が高い位に上り詰めて家名を上げてしまおうと考え、官位の上昇を図った。その結果、内大臣や右大臣など、20もの官位にまで上昇。後鳥羽上皇との親善に尽くし、下記の様な句を詠んでいる。

「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」

意味:山が裂けたり、海が干上がったりしても、上皇様(後鳥羽上皇)を裏切る気は全く無い。

暗殺[編集]

1219年、実朝は右大臣拝賀式の際、鶴岡八幡宮を訪れていた。太刀持ちに源仲章。しかし公暁が森の中から現れ、火花をちらし、薙刀を持って実朝を殺害した。享年28。

参考文献[編集]