北条高時
北条 高時(ほうじょう たかとき、嘉元元年12月2日(1304年1月9日) - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主。鎌倉幕府の第14代執権(在職:正和5年7月10日(1316年7月29日) - 正中3年3月13日(1326年4月16日))。第9代執権・北条貞時の3男。得宗家当主としては第9代にして最後の当主。
生涯[編集]
幼少期と家督相続[編集]
父は北条貞時。母は覚海円成(安達泰宗の娘)。兄弟姉妹に覚久、菊寿丸、泰家、崇暁、金寿丸、千代寿丸、北条師時室、北条熙時室、土岐光定室、北条時基室。正室は安達時顕の娘。側室は常葉前(御内人・五大院宗繁の妹)や二位局。子に邦時、時行、女子。養子に治時。官位は正五位下、相模守、修理権大夫、従四位下。
幼名は成寿丸。通称は相模太郎。延慶2年(1309年)1月21日に元服する。1月17日に小侍所別当に任命された。応長元年(1311年)6月23日に従五位下左馬権守に叙任される。そして同年10月に父の貞時が死去したため、得宗家の家督を継承して第9代当主となった。3男である高時が家督を継承できたのは、兄が夭折して実質嫡子になったためである。ただし、この時点では数えで9歳とあまりに幼すぎることから、執権職は継承していない。父の貞時は高時が生まれる2年前に執権職を従弟の北条師時に譲っていたが、師時は貞時より前に早世し、この時点で執権職は傍流の北条宗宣が継承していた。
第14代執権[編集]
高時は父の服喪のため、その死の年に官位を返上しているが、応長2年(1312年)2月4日に全て復されている。正和5年(1316年)1月5日に従五位上に昇り、1月13日に但馬権守を兼任する。この間、執権職は宗宣・北条煕時・北条基時と傍流が受け継いでいたが、これらは高時が成長するまでの代つなぎであった。正和5年(1316年)7月、数えで14歳(満で12歳)に成長した高時は、基時から執権職を譲られて第14代執権に就任する。ただし、14歳で執権として指導力を発揮するのは難しく、また父の貞時の晩年から執権職の権力の形骸化が進んでおり、実権は内管領の長崎円喜・長崎高資父子が掌握していた。高時は執権ではあったが、年齢的にもほとんどは傀儡に近い立場だったと見られている。
文保元年(1317年)3月10日に正五位下相模守に叙任。4月には当時の朝廷が大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承争いをしていたことから、それを調停するために両統迭立を建議した(文保の和談)。4月19日に従四位下となる。文保3年(1319年)1月に修理権大夫を兼任した。
元亨2年(1322年)8月、数えで20歳、満で18歳に成長していた高時は、評定衆から自筆の起請文を取った上で、幕政改革の意欲を示すなど主導権を発揮しようとしている動きが見られる。しかし、既に貞時の晩年から幕政は腐敗の一途をたどっており、正中元年(1324年)9月には後醍醐天皇やその側近による倒幕計画が露見することになる。いわゆる正中の変であるが、この際に高時や長崎円喜らはできるだけ朝廷を刺激したくないとして、首謀者を日野資朝ひとりにしぼって彼を佐渡国に流罪としたほかは、日野俊基らは許すなど寛大な処置をとって収めている。これは逆を言えば幕府の指導力がそこまで低下していたことを表したようなものであった。
正中2年(1325年)7月18日に建長寺船を元に派遣している。
高時は病気を理由に執権職を正中3年(1326年)3月13日に退くことになった。ところが、高時の後継者をめぐって御家騒動が起きる。高時はこの時点で数え24歳であったが、既に邦時という長男がいた。しかし幼少過ぎたため、弟の北条泰家が候補に挙げられる。邦時派・泰家派に分かれて両派は争い、執権職は長崎円喜がこの両派以外から傍流の北条家長老であった北条貞顕を推して第15代執権としたため、ひとまずは鎮静化すると思われたが、執権になれなかった泰家とその派は出家して抗議し、貞顕にもそこまで執権職への執着は無かったためか、わずか10日ほどで執権職を投げ出してしまう。やむなく、長崎は第16代執権に傍流の北条守時を立ててこの騒動はひとまずの終結を見ているが、幕府の権威の低下は避けられなかった(嘉暦の騒動)。
広がる倒幕運動[編集]
執権職を退いた後も、高時は得宗として幕政に大きく関与した。しかし嘉暦年間に入ると幕府の衰退は火を見るより明らかになった。奥州では安東氏が反乱を起こしており、この地方大名に過ぎない安東氏に幕府軍は再三追討軍を送りながら鎮圧がなかなかできず、嘉暦3年(1328年)10月になってようやく鎮圧しているが、これにより幕府の軍事力衰退すら明らかになる始末であった。また、畿内など各地で悪党の活動が活発になり、社会不安も増大していた。
元弘元年/元徳3年(1331年)になると、後醍醐天皇による2回目の倒幕計画が露見し、高時は今度は強硬な措置をとることを決意。長崎高貞と北条時直らの関東の幕府軍を上洛させると、後醍醐天皇の側近であった日野俊基や文観・円観らを捕縛し、先の変事で流罪にしていた資朝と俊基は佐渡と鎌倉でそれぞれ斬首とし、文観と円観は流罪とした。ところが、このような元弘の乱の大事の中で、幕府内では高時と長崎父子の主導権争いが再燃し、高時が長崎高頼・丹波長朝らに命じて長崎氏を討とうとする計画が事前に露見するという事態となる。高時は長崎父子に気を遣い、高頼らに罪を押し付けてその陰謀であるとして流罪に処したが、幕府内ではこの期に及んでも権力闘争が続いていた。元弘の乱は京都から笠置山に逃れた後醍醐天皇が護良親王らの助けを得て籠城したので、高時は北条貞直・北条貞冬・足利高氏らの北条一族の幕府軍を派遣し、後醍醐天皇を捕縛し、さらに後醍醐天皇に味方していた河内国の楠木正成も鎮定するに至って、ひとまずは落着した。しかし、楠木や護良親王は行方不明で取り逃がしている。
高時は後醍醐天皇の廃立を決意。天皇を隠岐国に配流することを決め、新帝には持明院統の光厳天皇を擁立した。しかし、後醍醐天皇は退位することを受け入れたわけではなく、これが南北朝時代の引き金の一つとなった。
元弘2年/正慶元年(1332年)末になると、行方をくらましていた楠木正成や護良親王が畿内でそれぞれ再起を果たして、ゲリラ的に活動を再開する。これを見て高時は関東から再度、幕府軍を派遣して鎮定を試みるが、楠木正成の善戦の前に幕府軍はまたも足止めを食らうことになった。
最期[編集]
元弘3年/正慶2年(1333年)になると、討幕運動は全国的な拡大を見せる。後醍醐天皇は隠岐国から脱出して伯耆国の名和長年が立て籠もる船上山に奉じられる。これを知った高時は近隣の幕府軍を派遣するも敗退した。
播磨国では赤松円心、伊予国では土居氏、九州では菊池氏などが後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵。これら近隣の幕府軍はほとんど敗退しており、高時は関東に残留していた足利高氏と北条高家の軍勢を送り出して鎮定しようと試みる。しかし、高家は円心に久我畷の戦いで敗死。『太平記』によると高氏は、2年前に父の足利貞氏が死去して喪に服していたにも関わらず、強硬に出兵を命じてきた高時に恨みを抱いていた、そして足利氏の大望である天下取りの野心もあったことから、高家の死を契機に鎌倉幕府を見限って丹波国で挙兵し、5月には円心らと協力して六波羅探題を攻め滅ぼした。
高氏の挙兵と呼応するように、上野国では新田義貞が挙兵して鎌倉を目指した。高時はこれに対して弟の泰家を大将とした幕府軍を派遣して鎮圧しようとしたが、幕府軍は一時的にこそ勝利したものの各所で敗北し続けた。そして5月22日に遂に新田軍に鎌倉の守りを突破されて市街に乱入されたため、葛西ヶ谷の東勝寺に逃れると、ここで長崎父子をはじめとした家臣、北条貞顕をはじめとした一族と共に自害した。31歳没(満29歳)。こうして鎌倉幕府は高時の死をもって141年の歴史に幕を下ろした。
廟所は鎌倉の円頓宝戒寺。なおここには得宗権現像もある。
人物像[編集]
高時は幕府滅亡時の総大将であるため、非常に評価が低い。「頗る亡気(うつけのこと)」「日夜に逸遊を事とし」と記録されているなど、いわゆる遊び狂った愚君として描かれている。『太平記』などではこの傾向が非常に色濃く描かれており、高時は天皇に歯向かった逆臣、さらに闘犬や酒食に溺れた暗君として描かれているが、これらは実像以上に酷く描かれている可能性も高い。
実際の高時は優れた文化人であったとされ、文化や文芸の保護には熱心で、高時が自害する際にはそれらの文化人が殉死したりしている。また、一族や家臣の多くも高時と共に自害しており、人望が乏しかったということは無いように思われる。もともと得宗専制政治は父の貞時の時代に腐敗して既に限界が来ていたため、全てを高時の責任に帰すのは少し無理がありすぎる。また、高時は病弱だったとされており、それが高時が指導力を発揮できなかった一因ではないかと見られる。得宗家は近親婚などのためか短命な者が多く、父の貞時は数えで41、祖父の北条時宗は数えで34、曽祖父の北条時頼は数えで37で死んでいる。高時が自害したのは数えで31であるが、仮に生き延びたとしてもそこまで長命だったかどうかには疑問が持たれるところである。
偏諱を受けた人物[編集]
高時の代には「高」の字を一般の御家人に下賜する図式が成立していたことが論文によって指摘されており(前述参照)、これに該当する人物は以下の者とみられる。
北条氏一門[編集]
ほか
その他[編集]
- 足利高義[4][5]
- 足利高氏[2][5][注 1](高義の弟、※のち足利尊氏(後醍醐天皇(尊治)の偏諱を受け改名))
- 足利高国[5][6](高義・高氏の弟、※のち足利直義)
- 足利高経(斯波高経)
- 安達高景(高時と義兄弟)
- 宇都宮高綱[7](※のち宇都宮公綱)
- 小田高知[2](※のち小田治久)
- 小山高朝[2][8](※のち小山秀朝)
- 葛西高清
- 河越高重[2]
- 工藤高景(工藤氏)[9]
- 五大院高繁(宗繁)
- 佐々木時信(六角時信)[2]
- 佐々木高氏(佐々木(京極)道誉/導誉)[2][10]
- 佐々木清高[2]
- 佐々木高貞(塩冶高貞)[2]
- 大掾高幹(大掾氏)
- 千葉高胤[11]
- 長井高冬[2](※のち長井挙冬)
- 長井高広[2](長井貞重の子)
- 摂津高親
- 摂津貞高
- 長崎高綱(円喜)[12][注 2]
- 長崎高頼
- 長崎高資[13]
- 長崎高貞
- 長崎高重
- 畠山高国
- 戸次高貞(戸次氏)[14]
- 三浦高継(相模三浦氏)
- 結城朝高(※のち結城朝祐)[15]
ほか
※ 鎌倉幕府滅亡時に高時ら北条氏から離反し、「高」の字を棄て改名した者。
関連作品[編集]
- ドラマ
- 太平記 (NHK大河ドラマ) - 1991年、演:片岡鶴太郎
- 北条時宗 (NHK大河ドラマ) - 2001年、演:浅利陽介
- 小説
- 高橋直樹「北条高時の最期」(『鎌倉擾乱』文藝春秋/文春文庫 所収)
- 漫画
脚注・出典[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ 山野 2012, p. 164.
- ↑ a b c d e f g h i j k 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」、『中央史学』2号1979年。15頁の系図ほか。
- ↑ 細川 2000, p. 32.
- ↑ 田中 2013, p. 25, 「中世前期下野足利氏論」.
- ↑ a b c 田中 2013, 臼井信義「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」
- ↑ 櫻井彦; 樋口州男; 錦昭江編 『足利尊氏のすべて』 新人物往来社、2008年、224頁。
- ↑ 江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」『下野宇都宮氏』 戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉、2011年、9頁。
- ↑ 峰岸, 入間田 & 白根 2007, p. 96, 市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」.
- ↑ 峰岸, 入間田 & 白根 2007, 今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」.
- ↑ 森茂暁 『佐々木導誉』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1994年、17頁。
- ↑ 服部英雄 「中世小城の景観・海から考える」、佐賀県小城市教育委員会編編 『中世肥前千葉氏の足跡〜小京都小城の源流〜』、2011年。尚、この論文では高胤の兄として千葉胤高も高時の1字を受けた人物として掲載されているが、胤高なる人物は系図類では確認されていない。
- ↑ 細川 2000, p. 183, 脚注(61).
- ↑ 細川 2000, p. 184, 脚注(73).
- ↑ 『群書系図部集 四』p.362 「大友系図」に「太郎高時賜一字早世」、p.372 「立花系図」に「北條相模守高時爲烏帽子親。授一字ト云々。」、『入江文書』(『大分県史料10』所収)の「大友田原系図」に「相模守高時加元服」とある。
- ↑ 典拠は『結城市史』など。詳しくは当該項目を参照のこと。