護良親王
護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての皇族・武将・征夷大将軍。父の後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕運動に貢献して大いに功績を立て、幕府滅亡後に成立した建武政権で征夷大将軍に就任する。足利尊氏を危険視してその排斥を目論むが、自らにも失策が多くあったことから政権から逆に排斥され、最後は流刑先の鎌倉において殺害された。
生涯[編集]
出生と僧侶[編集]
父は第96代天皇の後醍醐天皇。母は権大納言の源師親の娘・源親子。
文保2年(1318年)2月に比叡山延暦寺の梶井門跡の一門である大塔に入室した。このことから、大塔宮(おおとうのみや/だいとうのみや)と呼ばれるようになる。正中2年(1325年)に梶井門主となる。嘉暦元年(1326年)9月に落飾し、尊雲という法号を称して大僧都に直任。嘉暦2年(1327年)12月に3品に叙され、天台座主に補任された。この頃から父の討幕運動に協力し、関東調伏の祈祷を行なったりしたといわれている。
元徳元年(1329年)に天台座主を一時的に辞任。同年12月に再任されている。そして父帝の命令で延暦寺の大講堂を修復したり、新堂の祈願師を務めたりして、功績ありとして2品に叙された。護良親王は皇族で僧侶の身でありながら、実際は文芸や祈祷より武芸を好んで励んだという。そのため、父帝の討幕運動の中に延暦寺の勢力を組み込むことに重要な役割を担っている。
討幕運動に参画[編集]
元弘元年/元徳3年(1331年)、元弘の変が勃発して後醍醐天皇による討幕運動が露見すると、鎌倉幕府は後醍醐天皇を捕縛するために関東から大軍を上洛させる。これに対して護良親王は父帝を助けて延暦寺の僧兵を率いて幕府に対して挙兵するが、幕府の大軍の前に敗北して行方をくらました。この間、楠木正成の河内国赤坂城に逃れると、さらに十津川・吉野・熊野・高野山などに潜伏して野武士や悪党などを結集して巧みなゲリラ戦を展開した。元弘元年/元徳3年(1332年)11月、還俗して護良と称した。
護良親王のゲリラ活動が活発化し、さらに親王が発した令旨によって播磨国の赤松円心など各地の反幕勢力が挙兵しだしたので、北条高時は再度、関東から大軍を畿内に差し向けた。この大軍を率いた二階堂貞藤の攻撃を受けて護良親王が立て篭もっていた吉野は攻め落とされ、高野山に逃亡する。『高野春秋』によると、二階堂貞藤は高野山にも探索の手を拡げたが、高野山は護良親王を大塔の天井裏の梁間に匿ったので、幕府の探索はここまでは及ばなかったという。『高野春秋』は護良親王が発見されなかったことを「法力のしからしむか」と述べている。
その後、護良親王は金剛寺に播磨国西河井荘を寄進したり、歓喜寺に紀伊国和佐荘の安堵をしたりして、畿内周辺の寺社勢力を討幕運動の味方につけようと活動する。この間に、六波羅探題は足利尊氏と赤松円心によって攻め落とされ、関東の鎌倉も護良親王の令旨を受けた新田義貞によって攻め落とされて鎌倉幕府は滅亡し、幕府によって隠岐国に流罪とされていた後醍醐天皇も京都に戻るにいたり、討幕運動は完遂された。
足利尊氏との対立と失脚[編集]
鎌倉幕府滅亡後、護良親王は大和国の信貴山に在陣していたが、六波羅探題が滅ぼされた後に京都の治安や政務などが足利尊氏によって執行され、さらに畿内の幕府軍の大半も尊氏に降ったことを知り、尊氏の排除を決断したという。理由は尊氏が北条氏の一族であったこと、長年にわたって討幕に貢献してきた自身より、ただ一戦して功績を立てただけなのに既に自身を上回る声望と実力をつけていた尊氏を危険視したためといわれている。これに対して後醍醐天皇は坊門清忠を信貴山に派遣して護良親王を慰撫し、幕府滅亡が成ったからには僧侶に復して天台座主としての活動に励むように命じるも、護良親王はこれを拒否して自身に征夷大将軍の地位を与えるように望む。後醍醐天皇は幕府を倒したばかりの時点であり、ここで新たな戦乱の火種を抱えることは避けたい思惑があったため、護良親王の要請に応じて6月13日、親王に将軍職を与えた。さらに後醍醐天皇は護良親王に対して、北条高時の実弟・北条泰家の所領を与える命令を出した。
しかし、声望と実力は相変わらず尊氏のほうが上であったため、各地の武家はほとんどが尊氏のもとに集まった。しかも、幕府滅亡後の恩賞において護良親王の令旨を受けたとして恩賞を求める武家が続出すると、恩賞配分をめぐって建武政権に新たな火種をもたらすことになる。護良親王はゲリラ活動中にあちこちに令旨を乱発しており、中には綸旨とまで称して乱発していたものもあったとされている(『太平記』)が、あまりに乱発しすぎていたことが恩賞配分の問題、並びに父帝の勘気を買うことになる。恩賞問題に解決の糸筋が見えなくなったので、父帝が護良親王の令旨を無効とすると、護良親王の権威は一気に失墜してそれまで味方していた赤松円心らまでが足利尊氏側に寝返るようになってしまった。このため、護良親王は何度かにわたって尊氏の暗殺を計画して実行するが、これらはことごとく失敗に終わる。加えて、護良親王の配下には質の悪い武家が集まり、これらが京都市内において乱暴狼藉を働いたので、京都市民からも恨まれるようになった。『太平記』によると、護良親王の配下と称する武士を足利直義が捕縛すると、それらの武家が護良親王の家臣・殿ノ法印良忠の配下であることから助命を訴えたが、直義はこれを受け入れずに全員斬首とし、その首を粟田口に「護良親王の臣・殿ノ法印良忠の手の者」として晒したので、護良親王の権威はさらに低下した。
護良親王は激怒し、足利討伐のための令旨を各地に発して兵力を集めようとする。しかし、その令旨を尊氏に届けて注進に及んだ武家もあり、尊氏は後醍醐天皇の寵愛を受けていた護良親王の継母である阿野廉子に接近した。阿野廉子は自らが産んだ恒良親王を皇太子にすることを望んでおり、そのためには討幕に貢献していた護良親王は邪魔な存在であった。廉子と尊氏は護良親王の排除という点では利害が一致しており、廉子は後醍醐天皇に対して護良親王が発した令旨は皇位簒奪のためであると讒言した。後醍醐天皇には護良親王を処罰する意思までは無かったとされるが、問題ばかり起こす親王に辟易していたこともあったとされており、結局建武元年(1334年)10月22日、清涼殿の和歌の会に出席したところを、名和長年や結城親光らによって捕縛され、馬場殿あるいは武者所に拘禁され、さらに常盤井殿に移されて拘禁された。『太平記』によると「何の真似か」と驚く護良親王に対して、長年が「勅命でござる」と答えて取り押さえたという。
護良親王は父帝に対して自身が無罪であること、宥免の書状を出して潔白を訴えたが、それらの書状は罪科が及ぶことを恐れた伝奏役が握りつぶしたので父帝の下まで届けられず、親王の部下30人余りが連座として処刑され、親王自身は足利直義の下に身柄を移されて、鎌倉二階堂の東光寺に幽閉されたという(『梅松論』)。この際に親王は「仰いで天に訴えんとすれば、月日不孝の子を照らさず、伏して地に哭せんとすれば山川無礼の臣を載せず、父子義絶え乾坤共に棄つ」と悶々の情を述べたと言われている。『太平記』では二階堂ヶ谷の薬師堂の三方塗籠の土牢に入れられて劣悪な待遇を受けたとされており、「今となっては尊氏・直義はもとより、帝(後醍醐天皇)さえ恨めしい」とまで述べたと言われている。なお、『梅松論』においては南の方という女性のみが護良親王に従っていたという。
最期[編集]
建武2年(1335年)7月、北条高時の遺児・北条時行が信濃国の諏訪氏・滋野氏に奉じられて挙兵し、鎌倉を奪回すべく動き出した(中先代の乱)。鎌倉を守備していた足利軍は連戦連敗し、直義は鎌倉を放棄して成良親王を奉じて三河国に敗走することを決めた。
この際、直義は東光寺に幽閉していた護良親王の殺害を家臣の淵辺義博に命じ、淵辺は東光寺に向かって親王を殺害した。享年28。『太平記』によると、護良親王はその時点で読経をしていたが、刀を抜いてやって来た淵辺を見て「お前は我を殺しに来たな」と立ち上がって素手で抵抗したという。武勇に優れていた護良親王は懸命に抵抗したが、8ヶ月にわたる幽閉生活で体力と腕力を失っており、淵辺に仰向けに倒されるとそのまま首を取られたという。護良親王はその際、首を縮めて刀の切っ先に噛み付き、切っ先を一寸ほども折ったという。淵辺は驚いて腰の脇差を抜くと、護良親王の胸を2度にわたって突き刺し、その後で首を掻き落としたという。この際、淵辺は護良親王の首を抱いて外に出ると、明るい場所で改めてその顔を見ると、噛み切った切っ先を口に加えたまま、両目を見開いて睨みすえていたという。淵辺はその首を見て急に恐ろしくなり、こんな首は主君の直義に見せないほうがよい、と言って、その首をかたわらにあった竹藪の中に捨ててしまったという。なお、淵辺はその後すぐに戦死している。
直義が護良親王を殺害した理由は、その身柄が北条時行に確保された場合に担がれて利用されることを恐れたとも、足利氏を敵視していた恐るべきライバルをこの際に乗じて始末したのだとも言われている。
墓所は神奈川県鎌倉市二階堂の理智光寺谷。明治2年(1869年)に護良親王を祭る鎌倉宮(旧官幣中社)が鎌倉二階堂に創建された。
逸話[編集]
護良親王が幕府軍に敗れて山伏姿で紀伊国を落ち延びていた際、旧大塔村[注 1]に来た際に村人がついていた餅を所望した。当時、村では山伏には何も与えてはならない掟があったため、村人は拒否した。後にその山伏が護良親王であったことを知ると村人はその行為を恥じて、600年間にわたって正月に餅を食べることをやめた(代わりにぼうりという里芋の親芋を食べていたという)。昭和10年(1935年)に京都府の大覚寺で護良親王の600年忌が行なわれた際、600個の餅を持って許しを願い、それ以降は大塔村の村民も餅を食べられるようになったという。なお、大塔村とは言うまでもなく、護良親王の「大塔宮」をかけた村名である。
江戸時代の歴史学者である頼山陽は、護良親王の失脚並びに殺害には継母の阿野廉子の「浅はかさ」と父の後醍醐天皇の「暗愚」に責任があるとして批判している。
護良親王の皇子[編集]
関連項目[編集]
- 大塔村 - 奈良県と和歌山県に存在した村であるが、双方とも名前が元弘の変で大塔宮護良親王が落ち延びたことに由来する。
- 太平記(大河ドラマ) - 堤大二郎