足利義栄
足利 義栄(あしかが よしひで、? - 永禄11年(1568年))は、室町幕府の第14代征夷大将軍(在職:永禄11年2月8日(1568年3月6日) - 9月/10月)。室町幕府の歴代将軍の中で最も影の薄い将軍として、逆の意味で有名である。初名は義親(よしちか)であった。
生涯[編集]
将軍になるまで[編集]
父は第11代将軍・足利義澄の子である足利義維。母は大内義興の娘と見られている。生年に関しては天文5年(1536年)、天文7年(1538年)、天文9年(1540年)など様々な諸説があり、確定していない。
生まれた場所は父の義維が政争により亡命していた阿波国平島(現在の徳島県阿南市)と『言継卿記』は紹介している。なお、同記では生年は天文5年としている。少年時代の義親(義栄と名乗る前の前名)について知られる記録はほとんど存在しない。幼名についても不明である。ただ、『平島記』によると義親の母親は大内義興の娘で、その関係から父と共に大内氏を頼ろうとしたが、大内氏は大寧寺の変で大内義隆が陶隆房に殺され、そして大内氏も毛利元就に滅ぼされたので、実現しなかったと思われる。
永禄8年(1565年)、義親にとって従兄で第13第将軍である足利義輝が、三好義継、三好三人衆、松永久通らによって暗殺された。のちの世で永禄の変と言われた。『言継卿記』で山科言継は、阿波の義親を将軍にするために義輝を暗殺した、ルイス・フロイスでさえ同年6月9日付で豊後国に送った書状で言継と同じ見解を述べている。ただし一部では、義親を将軍にしようとする噂はあったが、世間ではそうは見られていないとする史料も存在している。
ここで重要なのは、義親やその父親が将軍職を得ようと野心を燃やしているのではなく、当時の実力者があくまで擁立しようとしていた点である。ただ、この点は順調には進まなかった。永禄の変からしばらくした後、義輝の弟である覚慶(後の足利義昭)を取り逃がしたり、松永久秀の実弟で三好政権の重要人物であった内藤宗勝が戦死して同政権は丹波国を失陥するなどしたためである。そして、同年11月16日には三好三人衆が、度重なる失態を重ねる松永久秀の更迭を三好義継に迫り、松永久秀とその子の久通は失脚を余儀なくされた(『多聞院日記』)。これにより、三好三人衆と松永親子の対立は決定的となり、武力衝突するに至る。
そんな中、義親は、阿波国から淡路国志知(現在の兵庫県あわじ市)に進出し、自らも四国の諸大名に対して軍勢を出すように督促状を出したりしている。そして『細川両家記』によると、三好家の重臣である篠原長房が2万5000[1]の大軍を率いて兵庫津(現在の神戸市)に渡海した、という。ただ、篠原率いる軍勢は非常に強く、摂津国や山城国における松永の諸城を次々と攻略し、『多聞院日記』では大和国筒井城の戦いで織田信長の援軍である尾張国の国衆すら蹴散らしたという。このため、それまで久秀を支持していた河内国畠山氏や根来寺などは久秀を見限り、三好政権に和睦を申し入れている。ルイス・フロイスは永禄9年(1566年)6月30日付で耶蘇会に送った手紙で、義親が京都を支配し、篠原長房がキリシタンを庇護することを期待していると述べている。
永禄9年(1566年)9月23日、義親は父の義維、並びに弟の足利義助と共に摂津国越水城に入城する(『言継卿記』)。ただ、この時点で義維は既に60歳近い高齢で、並びに病身でもあったので義親が立てられることになった。義親はこの時点でまだ無位無官だったが、伊予国の河野通宣に対して将軍が発給する御内書を下したりしている(『二神家文書』)。この御内書は通宣の重臣である村上通康に対しても出されている(『彦根藩諸士書上』)。義親が主導的な役割を発揮した初めての事例と見てよい。また、この時点で既に自分自身は将軍として振舞っていた、と見ることができる。義親は朝廷に対する工作も開始し、10月3日に太刀や馬を献上し、10月11日に武家伝奏の勧修寺尹豊が義親の下を訪れている。12月7日、義親は越水城から富田の普門寺(現在の大阪府高槻市)に拠点を移し、12月24日に従五位下左馬守への叙任を求め、4日後に認可されている。永禄10年(1567年)1月5日、消息宣下を受けて名を義親から義栄と改名し、この頃の義栄のことを記録では「とんたのふけ(富田の武家)」としている。
ところが、永禄10年(1567年)2月16日に三好義継が松永久秀を頼って逃亡するという事件が起こった。これにより、三好政権が本格的に大分裂し、三好義継・松永久秀ラインと三好長治・三人衆・篠原長房ラインに分かれて抗争するようになった。このような中で義栄は、5月6日に室町幕府奉行人連署奉書を発給して、石清水八幡宮の社務職に新善法寺照清を補任しようとしたりして存在感を示そうとした。ただしこの一件は、現職の田中長清が猛反対し、5月11日に朝廷も義栄に対して反対の意を示した。ところが、義栄は5月17日に再度奉書を下し、長清の行為は上意を軽んじた言語道断の行為であるとして厳しく批判した上で、照清の社務職補任を強行している。義栄が将軍、あるいは主導的な役割を事実上発揮した一例と言えるものであった。
しかし、同年10月10日に松永久秀の反攻により、三好三人衆は大敗を喫した(東大寺大仏殿の戦い)。11月になると、朝廷から勧修寺晴右、山科言継らが富田に下向し、義栄からは伊勢貞助、畠山守肱らが入京したりして、義栄の将軍職宣下に向けた交渉が繰り返されたが、朝廷は11月16日に正式に義栄の将軍宣下を拒否した。
12月になると、義栄がある奇策に出た。正親町天皇の嫡男である誠仁親王に対し、自らの妹を娶せようとしたのである(『言継卿記』)。これに対する朝廷側の返答の記録は無いが、恐らく拒否されたと見られる。
永禄11年(1568年)1月になると、かつて前将軍の義輝により政所執事の座を追放されていた伊勢貞為(当時は虎福丸)を復帰させ、伊勢氏を政所執事にして幕府の復活[2]をアピールしようとした。こうした義栄の機略に朝廷も遂に折れたのか、1月19日に義栄が朝廷に対して年頭の御礼を申し入れた際、朝廷は遂に義栄の存在を認めて、第14代将軍就任が決定的になった。
そして2月8日、義栄は将軍に就任することになった(『言継卿記』『お湯殿の上の日記』)。ただ、そのわずか2日前に義栄から朝廷に献上された「宣下の総用」に悪銭が多く混じっており、その受け取りをめぐって一騒動あったとされている。
将軍就任からあっけない最期[編集]
永禄11年(1568年)2月13日、義栄は上洛せずに富田で将軍就任の宣旨を受け取り、2月18日に伊勢貞為を通じて大舘輝光・畠山守肱・一色輝清・伊勢貞運・三好長逸・伊勢貞知らに御供衆として参勤するように命じている。ただ、義栄による室町幕府復活は、同時に越前国の朝倉義景を頼って亡命していた足利義昭との対立を意味していた。特に三好政権内では、三好三人衆は主導権を発揮しだした義栄を余り快くは思っておらず、長逸を御供衆にしたのは義栄による懐柔策と見られている。つまり、義栄を支持する阿波国の篠原長房と、三人衆のリーダーと言える長逸との間で大きな温度差があり、4月に長逸は織田信長と直接交渉を行い、信長に当時は属していた西美濃三人衆の稲葉一鉄の家臣・斎藤利三が上洛して長逸に贈物を送って、長逸は信長に対して自らの執り成しを依頼するなど、当初から義栄の室町幕府は既に崩壊の兆しを見せ始めていた。
7月、義昭が越前国から美濃国に動座し、現在の岐阜市にある立政寺に移った。信長は義昭を奉じて上洛する行動を本格化し、これに対して8月17日に三人衆は南近江国の六角義賢を味方にした(『言継卿記』)。
9月7日、信長は義昭を奉じて岐阜から出陣し、上洛の途についた。六角軍を蹴散らして南近江を平定すると、9月26日に東寺にまで進出した。そして、信長は洛中に入らず、9月29日に岩成友通が守る勝龍寺城を攻略し、さらに9月30日には芥川山城を攻略、さらに義栄の拠点があった富田まで焼き払った。
これに対して義栄が何をしたかというと、この時既に死の病にあったという。腫物恐らく癌を患っていたものと見られ、富田から上洛しなかったのも病身だったのが原因ではないかと思われる。義栄はそのまま回復することなく、病死した。享年は33、31、29など諸説があり、没した場所についても富田のほか、阿波国など諸説があって確定していない。没日にしても、『公卿補任』にある9月30日が最も有力と見られているが、『平島記』では10月8日などとされ諸説があってわかっていない。『平島記』では義栄の死について詳細に書かれており、病気により阿波で養生することを篠原長房に勧められ、三好長治に付き添われて撫養(現在の徳島県鳴門市)にまで下向したが、そこで力尽きて病死したという。三好政権の軍勢が信長にあっけなく敗れたのも、義栄が病に倒れて死にかけており、そのため士気が全く上がらなかったことに原因があったと見られている。
人物像[編集]
非常に影の薄い将軍で、室町幕府では最も影が薄いとしか言いようがない。そもそも生年も没年もここまでハッキリしていない将軍ということ自体、他に例が無い(早世した足利義勝、足利義量すら誕生日や没日はハッキリしている)。人気ゲームである『信長の野望』シリーズですら、義栄の存在はほとんど無視されている。義栄が登場するのは令和4年(2022年)6月時点で天翔記のみとなっている。同様に大河ドラマですら同時点で、義栄が登場したのは『麒麟がくる』が最初の事例である(しかもほんのわずかな出演)。
ただ、上記の生涯を見てもわかるように、義栄は決して無能だったわけではない。篠原長房など一部の支持勢力をうまく利用して奇策を取るなど、策士としての一面も表している。ただ、義栄はとことん運が悪かった。そもそも自身を後見するはずの存在である義維は病身でその役目は果たせない、義輝時代の幕臣からはほとんど無視される、病気で自分まで思うように動けないなど、様々な理由により影の薄い将軍という結果に終わったとも言える。なお、鎌倉幕府から江戸幕府までの歴代将軍のうち、将軍という立場にありながら幕府の本拠地に1度も入ることなく生涯を終えたのは、義栄のみである[3]。
このように影の薄い義栄は、存在を全く無視されているという状態である。織田信長の敵であるにも関わらず、信長の敵としての知名度はほとんど無い状態である。
子孫[編集]
義栄の子孫は平島公方家として阿波で血脈を繋いだが、鎌倉公方流の喜連川家のように、一領主として処遇されず、阿波藩の蜂須賀家の陪臣とされた。江戸中期に蜂須賀から離れて浪人し、明治維新期に華族にするよう政府に要望したが叶わず、平民とされた。
同時代の海外の政権[編集]
- 中国: 隆慶帝(明)
- 北インド: アクバル(ムガル帝国)
- 南インド: サダーシヴァ・ラーヤ(トゥルヴァ朝)
- トルコ: セリム2世(オスマン帝国)
- イタリア北東部: ピエトロ・ロレダン(ヴェネツィア共和国)
- フランス: シャルル9世(ヴァロワ朝)
- スペイン: フェリペ2世(アブスブルゴ朝)
関連項目[編集]
登場する作品[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
日本史における歴代将軍一覧 |