偏諱
偏諱(へんき/かたいみな)とは、自身より上位の人物の名前から一字を貰って、自分の名前の一部にすることである。
概要[編集]
古来より、日本人の名前は「2字」が多かった。そのような中で、組織の身分上位者は組織間の紐帯を深めるために自分の名前から一字を部下に与えて名前の一部として名乗らせる例が多かった。
偏諱を与えるという事は、その人物は身分上位者から信任されているという証となる。また、その人物に対する権威づけにもなった。
武士の時代になり、特に室町幕府の時代になると、征夷大将軍が諸大名に対して一字を与えることが慣例的になった。大抵は身分上位者の名前2文字のうち、下の字を与えることが多かったが、稀に上の字を与えることもあった。上の字を与えるという事は、将軍から絶大な信任を与えられていることを意味している。実際、室町幕府では偏諱を与えられた際、身分下位者は上位者に対し、献納金を納めなければならなかったが、その額は下字より上字が高かった(上字が数万疋、下字が3000疋)。また、戦国時代には下克上で成り上がった者が多く、そのため本来なら将軍から偏諱など与えられるはずもない家格であるにも関わらず、自身の権威づけや自勢力による支配の正当性を確保するため、偏諱を授かるケースもあった。
江戸幕府においても、征夷大将軍の偏諱は慣例的に諸大名に与えられた。
なお、著名人の偏諱としては、武田信玄が出家する前に名乗った「晴信」は室町幕府第12代将軍・足利義晴からの偏諱である。また、信玄のライバルである上杉謙信は出家前からたびたび名前を変えているが、上杉政虎は関東管領・上杉憲政からの偏諱であり、上杉輝虎は第13代将軍・足利義輝からの偏諱である。
義輝は、以前は義藤とも称しており、この藤の偏諱を細川藤孝や一色藤長らに与えている。身分上位者が名乗る名前の時点で、与えられる偏諱が異なる場合もある。
なお、今川義元や大内義隆のように、名門中の名門といえる大大名になると、身分上位者の上字である「義」を偏諱として与えられている。
また、戦国時代には偏諱は権威づけのほか、御恩として身分上位者から下位者に与えられる意味もあった。織田信長などは丹羽長秀や黒田長政らに偏諱を与えている。
さらに身分上位者といっても、例えばその時点で存命している人物ではなく、既に物故している人物を尊敬して自ら名乗る場合もあった。例えば徳川家康などは最初は松平元信と、身分上位者の今川義元から偏諱を授かっているが、後に元康と改めている。この「康」とは、彼の祖父で松平家を発展させた名将・松平清康からの偏諱である。元康は、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いに敗れて死去すると、元康から家康と改めているが、これは今川氏からの自立を意味するものであった。
また、偏諱は大抵は身分上位者の下字を貰い、下位者の上字にすることが一般的であったが、豊臣秀次などは下字を下位者の下字に名付けさせるという非常に珍しいケースがある。増田盛次、田中吉次などである。