東海道

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東海道(とうかいどう)とは、五畿七道という意味と、律令制下の首都である京都からみて「東」に向かう「海」の「道」という意味がある。西へ向かう道は「西海道」、南へ向かう道は「南海道」、北へ向かう道は「北陸道」である。

建設に至った経緯[編集]

奈良時代から平安時代にかけて、京都から地方に赴任する国司のため、あるいは、反乱を犯した蝦夷を討伐するための軍隊の派遣、あるいは商人の往来のために京都から各地へ向かう道路が整備された。なお、奈良時代、武蔵国東山道に属したため、相模国からの海路の到達先が上総国となっている。

これらの道路のうち、相模、武蔵両国へ向かう東海道は鎌倉時代になると、京都鎌倉を結ぶ道路として重要視された。幕府が京都に置かれた室町時代になっても鎌倉には幕府の地方の出先が置かれたためこの東国に向かう道路の重要性は変わらなかった。安土桃山時代における豊臣秀吉後北条氏討伐の遠征では、多数の将兵の行き交う道路となり、関ヶ原の戦いでは両軍の侵攻や撤退に重要な役割を果たした。

江戸時代に入ると、五街道の一つとして参勤交代や商人の営業活動のためにさらに道路の整備がなされた。具体的には旅人を直射日光から守る並木の植え込み、本陣旅籠を置いた宿場町の整備がなされ、メインルートも足柄路から箱根路に変わった。
一方で、軍事上、治安上の理由での関所の存在や、大井川長良川などの大河川に架橋をしなかったことなど、交通の妨げになることも行われたが、それでも東海道江戸を結ぶ重要な街道として栄え、53の宿駅を設けて、すべて、幕府直轄地や譜代大名旗本の領地とした。江戸から京都まで13~15日の旅であった。
なお、淀川左岸の京街道(宿場4箇所)を東海道に含める場合もあった。

鉄道の建設[編集]

東海道本線の歴史」も参照

江戸時代末期、鉄道の長所が知られるようになると徳川幕府の中でも鉄道建設の動きがあった。交通量の多い東海道と並行して江戸大坂を結ぶ計画はあったものの資金難で建設には至らなかった。やがて徳川幕府が倒れ、明治天皇が江戸に都を移して東京と改名し、明治新政府は様々な政策を遂行したがそのうちの一つに鉄道の建設があった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]