宗尊親王
宗尊親王(むねたかしんのう、仁治3年11月22日(1242年12月15日) - 文永11年8月1日(1274年9月2日))は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年) - 文永3年(1266年))皇族で初めての征夷大将軍である。後嵯峨天皇の第1皇子。
生涯[編集]
父は後嵯峨天皇。母は平棟基の娘・平棟子。寛元2年(1244年)1月28日に親王宣下を受け、建長4年(1252年)2月に第5代執権の北条時頼が第5代将軍の九条頼嗣を廃した際、時頼は後継の将軍に後嵯峨上皇の皇子の下向を要請し、それに応じた上皇が第1皇子の宗尊を下向させたという[1]。これが皇族将軍、親王将軍の最初の事例であった。鎌倉に迎えられたのは4月1日である。
しかし宗尊は病弱だったとされ、鎌倉に下向して間もなく病気に倒れ、8月6日には食事もとれないほどになる。時頼は鶴岡八幡宮の隆弁に祈祷を命じ、それが功を奏したのか、8月13日頃に恢復して御家人や幕府を安堵させている。
天皇の皇子だったため、普通は成長を待ってから将軍宣下を受けるのが通例だったが、宗尊は11歳に関わらず4月5日に4月1日付で上皇から将軍宣下の宣旨を与えられ、将軍に就任している。これは「年齢に関係なく将軍儀礼を遂行可能な将軍」を時頼が強く求めたためとされている。
将軍に就任してから間もない4月14日に、宗尊は鶴岡八幡宮の参宮をしており、以後の宗尊は幕政にはほとんど関与せず、もっぱら儀礼活動に終始している。実権は北条氏に掌握されており、宗尊はあくまで傀儡の立場だった。宗尊自身は和歌に優れた文化人であり、自らを将軍に擁立した北条時頼が死去した際には10首の歌を詠んでその死を悼んだという逸話もある。
ただし、成長してからの宗尊は幕政に関与しようと活動を始めだした。自分に供奉する御家人の選定を自ら行なったりするなど、人事介入を行なったのである。これは小侍所別当である北条実時や北条時宗と対立する行為に等しく、『吾妻鏡』では宗尊親王による人事介入で北条氏との対立を恐れた御家人の幕府儀礼辞退などの記録もある。
時頼の死後、第6代執権の北条長時も間もなく没し、第7代執権には北条政村が、連署には時宗が就任した。北条氏は積極的な人事介入を行なったりして将軍としての自立を深める宗尊と対立を深めていたが、そんな中で文永3年(1266年)6月20日に宗尊に仕える祈祷僧の松殿良基が将軍御所より突如蓄電する事件が発生する。そして同日、時宗屋敷で時宗と政村、実時、安達泰盛らによる「深秘の沙汰」が行われ、6月23日に宗尊の正室の近衛宰子と娘、惟康親王らは将軍御所を出ることになる。6月26日、鎌倉付近の御家人が鎌倉に集まるが、なぜかそのような情勢の中で宗尊の御所には島津忠景ら5名ほどしか集まらなかったという。7月4日に宗尊は北条時盛の佐介屋敷に移され、そこから京都に送還された。7月20日に入京して六波羅探題を務める北条時茂の屋敷に入った。こうして宗尊は不可解な情勢の中で将軍職を廃されたのであった。なお、宗尊の時茂屋敷に入った記録を最後に『吾妻鏡』は終了している。
第7代将軍には宗尊の皇子である惟康親王が3歳で就任した。京都に戻った宗尊は、文永9年(1272年)2月に出家し、文永11年(1274年)7月29日に死去している[2]。享年33。墓所の所在は不明となっている。
系譜[編集]
偏諱を与えた人物[編集]
脚注[編集]
宗尊親王が登場する作品[編集]
日本史における歴代将軍一覧 |