徳川家宣

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徳川 家宣(とくがわ いえのぶ、寛文2年4月25日1662年6月11日) - 正徳2年10月14日1712年11月12日)は、江戸幕府の第6代征夷大将軍(在任:宝永6年5月1日1709年6月8日) - 正徳2年10月14日(1712年1月15日))。将軍就任前は甲府藩の第2代藩主の地位にあった(在任:延宝6年10月25日1678年12月8日) - 宝永元年12月5日1704年12月31日))。

父は第3代将軍・徳川家光の3男・綱重。母は家臣の田中治兵衛の娘で家光の姉・千姫(天樹院)の侍女・松坂局に仕えていた女性である。幼名は虎松。正室は近衛熙子近衛基熙の娘)。側室はお喜世の方お古牟の方お須免の方斎宮。官位は正二位、贈正一位、権大納言、征夷大将軍、内大臣右大将。弟に松平清武。子に豊姫夢月院家千代大五郎家継虎吉。養女に政姫(近衛家熙の娘)。将軍になる前は徳川 綱豊(とくがわ つなとよ)と名乗っていた。

生涯[編集]

甲府藩主[編集]

甲府藩主・徳川綱重の長男で、家光の孫にあたる。ただし母親の身分が低かったため、綱重に正室が迎えられると庶子として綱重の家老新見正信に預けられて養育され、新見左近と称した。だが正室に男子が生まれなかったため、庶子である左近が嫡子に指名されて呼び戻され、延宝4年(1676年)12月に元服して従三位・左近衛権中将に叙任され、さらに伯父で第4代将軍・徳川家綱偏諱を賜り綱豊と名乗った。延宝6年(1678年)9月14日に父・綱重が死去したため、同年10月25日に家督を相続して25万石の甲府藩主となる。

延宝8年(1680年)8月に参議に、9月に正三位に叙任する。9月16日に大和で5万石、近江信濃でそれぞれ2万5000石、合わせて10万石を加増され、甲府藩主35万石の藩主となった。この加増は第5代将軍・徳川綱吉の就任直後に行なわれている。第4代将軍・徳川家綱には子が無く、そのため弟の綱重、綱吉のどちらかが後継者候補となっていた[注 1]が、綱重は家綱より先に死去したため、綱吉が第5代将軍に就任したからである。なお、綱豊は家綱死没当時19歳の若さであったため、後継者候補から外され、そのため綱吉が綱豊に配慮したものと推測されている。

元禄3年(1690年)12月に権中納言に任じられて通称「甲府中納言」と呼ばれるようになる。ただし綱豊は実際には甲府に入部せず、藩政は城代渡辺直茂戸田忠春が行なったという。甲府時代の甲斐は綱重の時代から続いた治水工事や新田開発、甲府城の修復、町中掟を公布するなど治績を挙げたことから「甲府様の御治世」と呼ばれた。

徳川将軍家[編集]

第5代将軍・徳川綱吉の実子・徳松早世し、その後は男子が生まれなかったため、第6代将軍が誰になるかで紛糾していた。候補者として綱重の子である綱豊と、和歌山藩主で綱吉の長女・鶴姫の婿である徳川綱教、そして尾張藩主で綱吉の姉・霊仙院(千代姫)を生母とする徳川綱誠[注 2]が候補になっていた。このうち、元禄12年(1699年)に綱誠は死去し、綱教は宝永元年(1704年)4月に鶴姫が死去してその間に子が無かったことから候補より外され、宝永元年(1704年)12月に綱吉の養嗣子に選ばれ、12月5日に世嗣として江戸城西の丸に移り、12月9日に家宣と名を改めた。

宝永6年(1709年)1月に綱吉が死去したため、48歳で第6代将軍に就任。綱吉が大御所にならなかったため、将軍就任時の年齢は、初代将軍の徳川家康に次ぐ高齢であり、歴代幕府の中でも第2位を記録している。
家宣は綱吉の時代に悪政と言われた生類憐みの令を綱吉の遺言に反して廃止し、綱吉の時代に重用された側用人柳沢吉保松平輝貞らを江戸城から退出させる左遷を行って、親政を開始する。また、譜代の家臣である新井白石を大政顧問、間部詮房側用人(老中格)として重用し、正徳の治と評される幕政改革を断行する。家宣は綱吉までの政治腐敗などを正すため不正を厳しく取り締まり、倹約令や芝居などの贅沢の取り締まりを行なう。厳しい政策を行なう一方で酒の運上を廃止するなど歓迎される政策も行なっている。

このように順調に幕政改革を行ない家宣は名君として期待されていたが、元々就任時点での高齢もあり、家宣は正徳2年(1712年)9月に重病に倒れた。家宣には嫡子に鍋松(のちの徳川家継)がいたがこの時点で4歳であり、鍋松が早世する可能性もあったため、家宣は尾張藩の吉通(綱誠の子)を第7代将軍にして鍋松が成長すれば鍋松を第8代将軍にするように計らうか、あるいは吉通を鍋松の後見人にして将軍の位は空位にし、鍋松が生長した暁に第7代将軍にするかのどちらかを選ぼうとしていた。しかし新井白石や間部詮房らは反対し、後継者は鍋松が選ばれることになった。

正徳2年(1712年)10月14日に江戸城において死去。享年51。

法名は文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士。墓所は東京都港区の三縁山広度院増上寺。

人物像[編集]

家宣は将軍家世子として江戸城に入城した際、下心のある諸大名旗本から大量の賄賂を送られたが、決して受け取らず、仮に受け取っても自分の物にせずに家臣に下げ渡したと言う。また、師匠の新井白石から徳川家康徳川秀忠徳川家光らの事績を学んで手本とし、人間性に疑問を持たれて新井白石から嫌われていた荻原重秀をそれを承知で重用したりするなど、政治的なバランスにも非常に優れていた。なお、次々代吉宗時代の幕閣として著名な大岡忠相は家宣時代に遠国奉行の山田奉行に就いている。

惜しむらくは将軍就任の時点で既に高齢であり(将軍就任時点で48歳は家康に次ぐ高齢である)で、もし寿命に恵まれていたなら名将軍と評された可能性は十分にあった。

徳川家宣が登場する作品[編集]

歌舞伎
テレビドラマ
映画
漫画
小説

脚注[編集]

注釈
  1. 一方で、大老酒井忠清鎌倉幕府6代目からの先例で有栖川宮幸仁親王を次期将軍に推していた。
  2. 家宣にとっては従兄にあたる。


日本史における歴代将軍一覧
(幕府なし)(坂上家) 1坂上田村麻呂
鎌倉幕府(源氏→摂家→皇族) 1源頼朝 / 2源頼家 / 3源実朝 / 4九条頼経 / 5九条頼嗣 / 6宗尊親王 / 7惟康親王 / 8久明親王 / 9守邦親王
室町幕府(足利家) 1足利尊氏 / 2足利義詮 / 3足利義満 / 4足利義持 / 5足利義量 / 6足利義教 / 7足利義勝 / 8足利義政 / 9足利義尚 / 10足利義稙(足利義材) / 11足利義澄 / 12足利義晴 / 13足利義輝 / 14足利義栄 / 15足利義昭
江戸幕府(徳川家) 1徳川家康 / 2徳川秀忠 / 3徳川家光 / 4徳川家綱 / 5徳川綱吉 / 6徳川家宣 / 7徳川家継 / 8徳川吉宗 / 9徳川家重 / 10徳川家治 / 11徳川家斉 / 12徳川家慶 / 13徳川家定 / 14徳川家茂 / 15徳川慶喜