上杉清子
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上杉 清子(うえすぎ せいし、? - 興国3年/康永元年2月23日(1342年3月30日))は、鎌倉時代後期から室町時代初期にかけての女性。勧修寺流の一流である上杉氏の出身で、父は上杉頼重。足利貞氏の側室となり、室町幕府の初代将軍である足利尊氏、直義を生んだ。兄弟姉妹に上杉重顕、上杉憲房、日静。甥に上杉憲顕、憲藤、重能、従兄弟に山名時氏。号は浄如寺雪庭[1]。通称は錦小路殿・大方禅尼[1]。
生涯[編集]
丹波の上杉氏の所領があった綾部市で育った[1]。足利貞氏の側室となり、嘉元3年7月27日(1305年8月18日)に尊氏を、徳治元年(1306年)に直義を生んだ。尊氏が鎌倉幕府に叛旗を翻した際には鎌倉にあったが難を逃れている[1]。尊氏が将軍となって室町幕府を開くと将軍の生母として重んじられ、紀伊粉河の観音に尊氏出生の祈願をかなえたことから戸帳を寄付した[1]。丹波安国寺にも所領を寄進した[1]。和歌も嗜む教養人で、彼女の和歌が『風雅集』に収められている[1]。興国3年/康永元年2月23日に死去。彼女の死に対し、北朝は30日の間、雑訴を停止し、従三位、後に従二位を贈った[1]。法号は等持院とされたが、息子の尊氏に同じ法号が与えられたので改められて果証院とされた[1]。墓所は京都府京都市北区の等持院[1]。
なお、清子の叔母は尊氏の祖父・家時の所生であり、上杉氏は代々足利氏と姻戚関係にあり、将軍生母の地位を得る前の清子の立場はこの叔母と同じ「家女房」という低い地位にあったと推測される[1]。