新田義宗
ナビゲーションに移動
検索に移動
新田 義宗(にった よしむね、? - 正平23年/応安元年7月21日(1368年9月3日))は、南北朝時代の武将。新田義貞の3男。兄に義顕、義興。子に貞方、岩松満純、横瀬貞氏、宗親、親季、義則、娘(岩松満国室)。官途は左兵衛佐・左近衛少将[1]。
生涯[編集]
父の義貞や兄の義顕が敗死すると義興や脇屋義治ら新田一族と共に東国に密かに逃れて勢力の回復を図った[1]。観応の擾乱が起こると正平7年/観応3年(1352年)に上野西部において挙兵して足利基氏を鎌倉から追放するなど一時的に勝利するが、足利尊氏の反撃を受け、また兵力では不利だったため笛吹峠や小手指原で尊氏に敗れて越後に逃走した[1]。正平23年/応安元年(1368年)7月、脇屋義治と共に越後で再挙して足利方の上杉憲将と戦うが、陣中で死去した[1]。