六波羅探題
六波羅探題(ろくはらたんだい)とは、鎌倉幕府の京都における機関の1つである。承久の乱後から鎌倉幕府滅亡直前[注 1]まで存在した。
概要[編集]
承久3年(1221年)6月に承久の乱において、北条義時の鎌倉幕府軍は後鳥羽上皇の朝廷軍に大勝して入京した。これにより、西国の支配や朝廷に対する幕府の優越権なども確立され、義時はこの乱の反省もあって朝廷や西国の監視の必要性から、京都に六波羅探題を設置した[1]。
六波羅探題は北方、南方の両府に分かれ、初代北方には北条泰時、同南方には北条時房が就任した[1]。彼らは承久の乱で幕府軍を率いて朝廷軍を破った立役者であり、当初は南方の時房が上位にあった。
当初は承久の乱の戦後処理と京都の治安維持が職務であったが、義時の命令で組織の整備が進められ、朝廷や公家の守護と監視、洛中の治安維持、西国方面の軍事や裁判、検断などの沙汰なども行なわれるようになった。組織の整備は義時や泰時の死後も進められ、第6代執権・北条長時の時代である正元元年(1259年)に、「大事がある時は鎌倉の指示を仰ぎ、小事は六波羅の専権事項とする」ことが定められたことにより、評定衆や引付方が設置されて六波羅探題の組織は一応完成したと見られている[1]。
正安年間になると、検断方が設置されて引付方から検断沙汰が移管され、鎌倉が管轄する関東分との境は時期によって変動があるものの、大体は三河国・美濃国・飛騨国・加賀国とされることになった。つまり、それより西が六波羅の管轄、東が鎌倉の管轄というわけである。後に元寇のため鎮西探題が設置されると、九州については六波羅から鎮西に管轄が移された[1]。
歴代探題は、得宗家から名越流を除く様々な分流の北条氏の一族が選ばれて就任した。
鎌倉幕府においては執権・連署に次いで、引付頭人と同格の重職として扱われた[1]。また、六波羅探題北方に得宗家の泰時の異母弟の重時就任以来、北方は得宗家が高く信頼する重時一門の普恩寺流の一族が途切れ無く継ぎ、鎌倉に帰還して執権か連署、あるいは引付衆に就任して幕府の重職を歴任するようになり、後年の江戸幕府の京都所司代とほぼ同等の存在になった。一方、南方は時房鎌倉遷任後、後を継いだ時盛が得宗家から冷遇され、南方は元寇まで二度の空白期を迎え、就任者も時頼の庶子や時盛の孫となって、北方に比べ影の薄い存在となった。
弘安の役後は、北条氏が全国支配体制を固めるため、南方も過去のような長期空白期が無くなり、南方経験者からも執権就任者が出るようになった。
鎌倉時代末期になって畿内周辺で楠木正成や赤松円心らによる討幕運動が活発化すると、探題は幕府軍を率いて鎮圧しようとしたが失敗する。そして元弘3年/正慶2年(1333年)4月に足利高氏が後醍醐天皇の綸旨を奉じて挙兵、鎌倉幕府から離反すると、六波羅探題は足利・赤松らの軍勢によって攻められて5月7日に陥落。当時の北方探題・北条仲時と南方探題・北条時益は、光厳天皇を奉じて鎌倉に逃亡しようとしたが、時益は落ち延びる途中で戦死。仲時も佐々木道誉の裏切りにより進退窮まり、5月9日に生き残った430名余りと共に近江国番場において自害し、これにより六波羅探題は滅亡した。
六波羅探題一覧[編集]
六波羅探題北方[編集]
- 太字は退任後に執権になった者を指す。なお、何名かは執権同等の扱いを受けた者がおり、それらは別に薄く指している。
- 北条泰時(得宗家) 1221年 - 1224年
- 北条時氏(得宗家) 1224年 - 1230年[注 2]
- 北条重時(極楽寺流) 1230年 - 1247年
- 北条長時(極楽寺流赤橋氏) 1247年 - 1256年
- 北条時茂(極楽寺流常盤氏) 1256年 - 1270年
- 北条義宗(極楽寺流赤橋氏) 1271年 - 1276年
- 北条時村(政村流) 1277年 - 1287年
- 北条兼時(得宗家) 1287年 - 1293年
- 北条久時(極楽寺流赤橋氏) 1293年 - 1297年
- 北条宗方(得宗家宗頼流)1297年 - 1300年
- 北条基時(極楽寺流普恩寺氏)1301年 - 1303年
- 北条時範(極楽寺流常盤氏)1303年 - 1307年
- 北条貞顕(金沢流) 1311年 - 1314年
- 北条時敦(政村流) 1315年 - 1320年
- 北条範貞(極楽寺流常盤氏)1321年 - 1330年
- 北条仲時(極楽寺流普恩寺氏) 1330年 - 1333年
六波羅探題南方[編集]
- 北条時房(時房流) 1221年 - 1225年[注 3][2]
- 北条時盛(佐介流) 1224年 - 1242年
- 北条時輔(得宗家) 1264年 - 1272年
- 北条時国(佐介流) 1277年 - 1284年
- 北条兼時(得宗家) 1284年 - 1287年
- 北条盛房(佐介流) 1288年 - 1297年
- 北条宗宣(大仏流) 1297年 - 1302年
- 北条貞顕(金沢流) 1302年 - 1308年
- 北条貞房(大仏流) 1308年 - 1309年
- 北条時敦(政村流) 1311年 - 1315年
- 北条維貞(大仏流) 1315年 - 1324年
- 北条貞将(金沢流) 1324年 - 1330年[注 4]
- 北条時益(政村流) 1330年 - 1333年
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 鎌倉幕府滅亡の2週間前に滅亡した。
- ↑ 探題退任の年に病気に倒れて28歳の若さで死去。長生きしていたなら泰時の跡を継いで第4代執権になっていた可能性が高い(第4代執権になったのは時氏の長男・北条経時)。
- ↑ 時房は探題退任後、連署になったとするのが一般的な解釈であるが、時房の場合は連署では無く、泰時と同等の「両執権」だった可能性が指摘されている。時房は泰時より元日の椀飯の沙汰を回数の上で務めており、単なる連署すなわち執権の補佐役としての役割を越えていた。
- ↑ あくまで『太平記』という軍記物の記述によるものだが、幕府滅亡の直前に執権に任命されたとする説がある。すなわち第17代執権である。ただし、『太平記』ではあくまで「探題」に任命され、相模守に転任したとしている。
出典[編集]
参考文献[編集]