成良親王
成良親王(なりよししんのう/なりながしんのう、嘉暦元年(1326年) - ?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子[1]。母は阿野廉子[1]。同母兄弟に恒良親王、後村上天皇。一時期は征夷大将軍・皇太子になった。
生涯[編集]
元弘3年(1333年)11月23日に親王宣下を受ける[1]。12月14日に足利直義に奉じられて鎌倉に下向した[1]。元弘4年(1334年)1月14日の除目により4品となり、上野国主に任命された[1][2]。
建武2年(1335年)7月に北条時行が中先代の乱を起こして各地で足利軍を破った北条軍が鎌倉に迫ると、足利直義に奉じられて鎌倉を放棄して西へ逃走し、親王はそのまま京都に戻って8月1日に後醍醐天皇より征夷大将軍に任命された[2]。これは時行討伐の見返りに将軍職を望む尊氏を牽制するために後醍醐天皇が親王に輔任したものと推測されている[2]。将軍となった親王は将軍宮と称されたが、建武政権下では建武3年(1336年)2月に将軍の号は停止させられている[2]。
延元元年(1336年)11月、足利尊氏の圧力を受けた後醍醐天皇が比叡山から下って光明天皇に神器を譲った後の11月6日に皇太子とされた[2]。これは後醍醐天皇だけでなく足利尊氏も同意の下で行なわれており、尊氏はかつてのように両統迭立を狙っていたものと推測される[2]。しかし12月21日に後醍醐天皇が吉野に逃れたため、成良親王の皇太子位は停止された[2]。
『太平記』によると越前金ヶ崎城が落城した際に足利方に捕縛された恒良親王と共に尊氏・直義により幽閉され、しばらくして直義の密命を受けた刺客により毒殺されたと伝えている。『師守記』によると興国5年/康永3年1月6日(1344年1月21日)に近衛基嗣屋敷に預けられていた「後醍醐院皇子先坊」の薨去を伝える記録があり、この先坊は成良親王を指すとされ、没年に関しては不明である。なお『太平記』と『師守記』の記録を比較すると没年には5年以上の差がある事になる。