北条時行
北条 時行(ほうじょう ときゆき、? - 正平8年/文和2年5月20日(1353年6月21日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は鎌倉幕府の第14代執権・北条高時で次男。兄に邦時。子に豊島輝時、行氏、時満、惟時。北条得宗家の最後の当主である。
中先代の乱を起こして一時的に鎌倉に北条得宗政権を再興したが、すぐに足利尊氏に敗れて逃亡。以後は後醍醐天皇に属して尊氏と戦い、最終的に尊氏に敗れて処刑された。
生涯[編集]
幼少期[編集]
時行の幼名は勝長寿丸(『保暦間記』)、長寿丸(『梅松論』)、亀寿(『太平記』)、全嘉丸・亀寿丸(『北条系図』)と史料により異なっている。通称は相模二郎という[1]。
正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日に新田義貞の鎌倉攻略で父の高時をはじめとした北条一族が自殺した際、幼少であった時行は諏訪盛高に匿われて密かに鎌倉から脱出し、信濃の諏訪頼重に匿われた[1]。
中先代の乱[編集]
鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇による建武の新政が開始され、鎌倉には天皇の名代として子息の成良親王が常駐するが、余りに実情を無視した施策が多く政権の動揺、武士や公家、民衆の不満の増大で短期で政権は崩壊の兆しを見せ始めた。そのような中で建武政権の一員である西園寺公宗は時行の叔父・北条泰家と組んで鎌倉幕府の再興を企図した[2][1]。この再興計画には時行も名を連ねており、泰家が京都の大将として畿内近国の軍兵を結集した際、時行は関東の大将として東国の軍兵を結集するというものだったが、計画が事前に政権側に漏れて公宗は逮捕処刑された[1]。時行は諏訪頼重・時継父子や滋野氏らに擁立されて建武2年(1335年)7月14日に信濃で挙兵し、同国守護の小笠原貞宗と戦ってこれを破り、さらに鎌倉に進撃して防衛を務めていた渋川義季や岩松経家らを武蔵女影原の戦いで破って討ち取り、さらに小山秀朝も破ってこれを一族もろとも自殺させるという連戦連勝の勢いを見せた[1]。
この北条軍の勢いに鎌倉防衛の総責任者であった足利直義は甥の義詮や成良親王を連れて鎌倉を放棄して逃亡したため、時行は鎌倉に入って新たな支配者となった[1]。しかし8月になると足利尊氏が時行追討の軍を率いて京都から出陣し、三河矢作宿まで撤退していた足利直義の軍勢と合流して反撃を開始する[1]。時行はこれを迎え撃つが8月9日の遠江橋本の戦いで敗北し、その後も佐夜中山・高橋・箱根・相模川・片瀬川などいずれも北条軍は足利軍に敗北し、8月19日には遂に鎌倉を足利軍に奪われた[1]。鎌倉を時行が支配していたのはわずか20数日でしかなく、この一連の敗戦で諏訪親子を失い、時行は逃亡した(中先代の乱)[3]。
南朝の武将[編集]
建武4年/延元2年(1337年)、足利尊氏の離反で追い詰められていた後醍醐天皇は時行に対して朝敵赦免の綸旨を下して尊氏・直義兄弟の追討を命じた[3]。このため時行は奥州から出陣した北畠顕家の軍勢に加わって鎌倉攻めに参加し、翌年の美濃墨俣・青野原の戦いにも参加して足利軍に勝利している[3]。
時は流れ、北畠顕家や新田義貞らも討たれて足利尊氏の覇権が確立する中、幕府で観応の擾乱と称される内紛が起こる[3]。時行は尊氏・直義の対立に乗じて新田義興・義宗らが文和元年/正平7年(1352年)閏2月に上野で挙兵するとこれに呼応し、時行らは閏2月18日に鎌倉を奪った[3]。しかし足利尊氏はすぐに反撃し、閏2月22日の武蔵金井原の戦いで義興が撃破されたのをはじめ、閏2月28日にも小手指原の戦いで義宗が敗れたため、鎌倉は尊氏により奪回された[3]。
この際、新田義興・義宗らは逃走したが、時行は翌年に捕らえられ、その年の5月に鎌倉竜ノ口において尊氏の命により斬首された[3]。