足利義政
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足利義政 あしかが よしまさ | |||||||||||||||||||||||||||
足利義政像
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足利義政(あしかがよしまさ)とは、室町幕府第8代征夷大将軍である。銀閣寺を作った人物として有名。
生涯[編集]
1436年、京都にて出生。1443年7月21日、兄の足利義勝が死去したことにより細川持賢・畠山持国・山名持豊ら宿老の手助けにより後嗣となる。当初は義成(よししげ)と名乗った。1449年4月29日に将軍宣下を行い征夷大将軍に就いた。
1453年に名を改め義政と名乗った。1460年、朝廷により左大臣に任命される。
1457年には、関東の古河に退いた足利成氏に対抗するため、兄政知を東へ送ったが、政知は鎌倉に入れず、伊豆入りに止まった。その後も政治は中々うまいこと行かず、1464年に弟・足利義視を僧侶からやめさせ征夷大将軍職に就かせようと考えた。しかし1465年に妻の日野富子が足利義尚を出産し、将軍職を巡って応仁の乱が起こった。
義政はもちろん義視側につき、総大将を細川勝元とした。一方富子は総大将を山名宗全として、戦いが始まった。戦いは泥沼化し、義視側についた義政は戦いからひっそりと逃れ、1482年に銀閣寺を建立した。やがて乱は終結を迎え、嫡子・義尚を将軍職に継承させることにして義政は約40年に及ぶ将軍職を終え、銀閣寺にこもって生活した。
富子は義尚の補佐を務め、代わりに政治をした。義政は茶の湯や生け花、水墨画などの東山文化を発達させて室町文化の大半を創った。この頃義政を支えた文化人として、雪舟や村田珠光がいる。
1489年に息子に先立たれたため、幕府トップに復帰したが、翌1490年に京都にて死去。享年56。