守邦親王
守邦親王(もりくにしんのう、正安3年5月12日(1301年6月19日) - 元弘3年8月16日(1333年9月25日))は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。第8代将軍・久明親王の子(在職:徳治3年(1308年) - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))。
生涯[編集]
第8代将軍・久明親王と、第7代将軍・惟康親王の娘の間の子である。徳治3年(1308年)に父が北条貞時によって将軍職を解任された際、後釜の将軍として擁立された。既に鎌倉将軍の地位は名前を利用される傀儡として形骸化しており、わずか8歳の守邦親王には何らの決定権もなかった。ただ、この後、貞時が政治に関心を無くし、実権は北条氏の家臣すなわち御内人(内管領)である長崎円喜や北条氏の外戚の安達時顕らが掌握しており、北条氏の一族が就いていた執権や連署の職すら形骸化が進んでいた。
守邦は傀儡であったが、その傀儡としての存在すら忘れられていたのか、もしくは朝廷に繋がる貴種として尊かったのか、元弘3年/正慶2年(1333年)5月に上野国で新田義貞が挙兵して鎌倉に攻め込んだ際、得宗の北条高時を敵側の最高指導者と見なし、守邦親王は敵側の形だけの最高指導者とされずに、義貞は攻め込んでいる。
つまり、守邦は敵側すら「雇われ大将」同然と見られた存在であった。
この新田義貞の攻撃で鎌倉が陥落し、北条高時ら北条氏首脳部283名が鎌倉で自害した際、守邦が何をしていたのか具体的なことはわかっていないし記録にすらない。
そのため以降は推測になるのだが、新田義貞が鎌倉に入ってから本陣としたのが勝長寿院という寺院である。この勝長寿院は親王将軍と関係が深く、歴代親王将軍の子息の1人はこの勝長寿院の住職に例外なく就任しているし、守邦親王の子供は出家して鎌倉の勝長寿院の住職になっている。そのため、勝長寿院に守邦は避難していて、ここで新田義貞から出家するように指示された可能性がある。守邦は幕府滅亡と同時に出家して、将軍職も辞任した。
そしてそれからわずか3か月後の8月16日に亡くなったというが、これは後世の編纂物による記録によるもので、当時の文献の記録にはない。享年は33。鎌倉幕府の歴代将軍としては在任が最長であるが、最も動向が不明の影の薄い将軍であった。
守邦親王が登場する作品[編集]
- 太平記 (NHK大河ドラマ) - 1991年、演:吉川英資
外部リンク[編集]
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