足利義勝
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足利 義勝(あしかが よしかつ、永享6年2月9日(1434年3月19日) - 嘉吉3年7月21日(1443年8月16日))は、室町幕府の第7代将軍(在職:嘉吉2年11月17日(1442年12月19日) - 嘉吉3年7月21日(1443年8月16日))[1]。
生涯[編集]
父は第6代将軍・足利義教で長男[1](嫡男)。母は日野重光(裏松重光)の娘・日野重子[1]。弟に政知、義政、義視、義永、義尭、義観らがいる。子は無し。
嘉吉元年(1441年)6月24日の嘉吉の乱で父の義教が播磨の守護大名である赤松満祐らによって暗殺されたため、管領の細川持之らによって擁立されて家督を継いだ[1]。このため、弱冠9歳にして元服し、征夷大将軍となる[1]。なお、元服の際の諱には義勝のほか、「義行(よしゆき)」も候補に挙げられたが、義行は平安時代末期の英雄である源義経が兄の源頼朝に追われて没落した際に称した諱であることから不吉であるとして外されている。
嘉吉3年(1443年)7月21日、赤痢により病死した[1]。享年10[1]。子は無く、同母弟の義政が後継者に選ばれ、義勝の死から6年後の宝徳元年(1449年)8月に第8代将軍として跡を継いだ[2]。
法名は慶雲院栄山道春。
脚注[編集]
参考文献[編集]
日本史における歴代将軍一覧 |