北条守時
北条 守時(ほうじょう もりとき、永仁3年(1295年) - 正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日))は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で、鎌倉幕府第16代・最後の執権(在職:正中3年4月24日(1326年5月26日) - 正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日))。赤橋 守時(あかはし もりとき)とも呼ばれる。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。
生涯[編集]
執権就任[編集]
父は北条久時。母は北条宗頼の娘(第8代執権・北条時宗の姪)なので、得宗家の血も引いている。兄弟姉妹に鎮西探題を務めた北条英時や室町幕府の初代征夷大将軍である足利尊氏の正室・赤橋登子などがいる。子に北条益時など。諱の守時は鎌倉幕府の将軍・守邦親王からの偏諱である。
守時の家系である赤橋家は歴代当主が執権など要職を務めたことで家格が得宗家に次いで高く、将軍からの偏諱や烏帽子親も許されていた。守時はその家格により(母親が得宗家の血をひいているのもあるとされる)、執権になる前には1番引付頭人の地位にあった。
嘉暦元年(1326年)3月の嘉暦の騒動の結果、第15代執権であった北条貞顕がわずか10日で執権職を辞任する。後継者問題が起こり、その結果当時引付1番頭人であり、32歳で赤橋家という家格の高さが考慮されて、4月に守時が第16代執権に就任することになった。
守時の執権政治[編集]
当時の鎌倉幕府は得宗家筆頭家老の長崎円喜と北条高時の岳父に当たる安達時顕が実権を掌握しており、さらに北条茂時や北条顕実、北条時春、北条貞直といった北条一族も多く存在して寄合により政権運営が行なわれていたため、嘉暦の騒動により緊急事態的に擁立された守時にこれらを主導する権力は全く存在していなかった。
守時の時代には奥州の反乱が問題化しており、そのため嘉暦2年(1327年)には宇都宮高貞を蝦夷追討使に任命して、常陸国や下野国の御家人を中心にした幕府軍を奥州に派遣して反乱を鎮圧しようとしている。ただ、この反乱を既に幕府は武力で完全鎮圧する実力は無く、嘉暦3年(1328年)に高貞は和睦を提案することでこの反乱を一応は鎮めて鎌倉に帰還している。また、各地で悪党の蜂起が発生し、これらの対応にも守時は苦慮することになった。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇による再度の鎌倉幕府転覆計画が露見し、天皇は笠置山に逃れて挙兵する。これに対して守時は主導する立場ではなく、実際には長崎らが主導の形で、北条貞直、北条貞冬、足利尊氏らを大将とした幕府軍を派遣して笠置山を落とし、捕縛した後醍醐天皇を隠岐国に配流し、さらに正中の変で助命していた日野資朝、日野俊基ら反幕公家を処刑するという厳しい処置を取った(元弘の変)。ただ、元弘2年/正慶元年(1332年)末には楠木正成、護良親王らが鎌倉幕府に対して挙兵するなど、後醍醐天皇が点火した討幕の火種は最早とどまることがなかった。
正慶2年/元弘3年(1333年)に入ると、後醍醐天皇が隠岐国から脱出し、さらに楠木正成の善戦で幕府軍が敗北してその間に播磨国の赤松円心、四国の土居氏などが挙兵するなど、最早討幕運動は留まることがなかった。さらに守時の妹婿である足利尊氏(当時は高氏)が鎌倉幕府から離反して六波羅探題を落とし、さらに新田義貞が上野国で挙兵して鎌倉を目指して南下する。
最期[編集]
この南下する新田軍に対して、洲崎(現在の鎌倉市)で北条軍を率いて迎撃したのが執権であった守時であったという。洲崎は化粧坂、巨福呂坂につながる要地であり、小高い地で村岡方面への見通しも良いので布陣したと考えられている。『太平記』によると、守時は正慶2年/元弘3年(1333年)5月18日に新田軍と激戦を繰り広げ、この1日だけで65度も切り結ぶという激戦を展開したという。これは妹婿の尊氏が六波羅探題を落として幕府から離反したことが明確になったため、幕府内では守時が朝廷方に内通するのではないかと疑われている向きがあり、それを払拭するために激戦を繰り広げたのであるとしている。守時は激戦の結果、遂に敗れて山ノ内まで撤退し、そこで侍大将の南条高直や息子の益時ら90名余と共に自害して果てた。享年39。
守時が新田義貞と激戦を繰り広げた場所には「洲崎古戦場」の碑が残されており、さらに深沢多目的スポーツ広場内に「陣出の泣塔」と呼ばれる宝筺院塔があり、これは戦死者の供養のために建立されたという伝承があり、洲崎の戦いがいかに激戦であったかを現在に物語るものとなっている。
死後[編集]
守時の死の4日後、高時ら幕府首脳も自刃して、鎌倉幕府は完全に滅亡した。
幕府滅亡後の正慶2年/元弘3年(1333年)11月、後醍醐天皇は守時の未亡人(守時の死で出家して尼になっていた)に対し、伊豆国三浦荘内で田地1万疋を与える綸旨を出している。これは異例の厚遇といってよく、なぜ敵の最高司令官ともいうべき守時の遺族にこのような処置がとられたのか具体的なことは不明であるが、後醍醐天皇の建武政権において重要人物となっていた義弟の足利尊氏が天皇に嘆願したとする説もある。
鎌倉幕府滅亡前、妹の登子とその息子の千寿王(後の足利義詮)が鎌倉から脱出できたのは守時の計らいがあったためとする説もあり、尊氏はこの義兄の行為を感謝していたともいわれる。なお、赤橋家の家系は室町幕府の足利将軍家の血筋、鎌倉公方家の血筋において脈々と続いていくことになった。