九条頼嗣
九条 頼嗣(くじょう よりつぐ、延応元年11月21日(1239年12月17日) - 康元元年9月25日(1256年10月14日))は、鎌倉幕府の第5代将軍。五摂家のひとつである九条家の出身の摂家将軍の2代目(在任:寛元2年4月28日(1244年6月5日) - 建長4年2月20日(1252年3月31日))。正室は北条時氏の娘・檜皮姫。弟に道増、源恵。官位は従三位、左近衛中将。
生涯[編集]
将軍職就任[編集]
父は第4代将軍の九条頼経、母は中納言の藤原親能の娘・大宮局(二棟御方)(『吾妻鏡』延応元年(1239年)11月21日条))。父同様、初代将軍の源頼朝と血縁関係にある。寛元2年(1244年)4月21日に6歳で第4代執権・北条経時を烏帽子親として元服する[1]。4月28日に将軍宣下を受け、父から将軍職を譲られて第5代将軍に就任した。将軍に就任すると6月13日に吉書始、御行始を行ない、8月15日には鶴岡放生会で父・頼経と共に臨席している[1]。
寛元3年(1245年)7月26日、7歳で北条経時の妹で自らの9歳年上に当たる檜皮姫を正室に迎えた[1]。この時の結婚は『吾妻鏡』によると秘密裏に行なわれて大々的にはされず、後日に披露が行なわれている。理由は婚姻当日が「天地相去日」であるとの反対意見を退けての婚姻であったためとされる。ただし文暦元年(1234年)7月に頼経の正室である竹御所が死去していたことが原因とされている[2]。この竹御所は第2代将軍・源頼家の娘で、北条政子の孫娘に当たる[2]。つまり、執権の北条氏と九条氏を結ぶパイプ役であったが、この竹御所が死去して北条と九条の血縁関係は途切れてしまっており、北条経時としては頼嗣と自分の妹を婚姻させることで将軍家と執権の関係を修復しようとしたものと推測されている[2]。
追放劇[編集]
寛元4年(1246年)閏4月に第4代執権・北条経時が死去すると、執権と前将軍で頼嗣の父である九条頼経の関係は再び悪化し、7月に宮騒動が起こり頼経は鎌倉を追われて京都に強制送還された[2]。これにより、頼嗣は最大の庇護者である父親と離れ離れになった[2]。これにより幕府の実権は完全に第5代執権に就任した経時の弟・北条時頼が掌握し、幼い頼嗣はこの時頼によって傀儡同然に扱われた。この後、頼嗣の近習六番が定められているが、全て時頼主導で行なわれており、頼嗣の和歌や弓馬の指導役には中原師連・清原教隆・安達義景・小山長村・佐原光盛・武田五郎・三浦盛時といった自らの息のかかった者を配置している(『吾妻鏡』建長2年(1250年)2月26日条)。
宝治元年(1247年)5月13日に正室の檜皮姫が病死し、北条家と九条家の姻戚関係は再び途切れた[3]。さらに6月には宝治合戦が起こり、これにより九条家を支持していた三浦氏・毛利氏・千葉氏などは一掃されて、頼嗣は完全に北条家の傀儡になってしまった[3]。この合戦の際も御所を北条実時に抑えられて三浦泰村の下へ向かうこともできなかったという[3]。さらに戦後には将軍として北条家に味方した武将らの功績を賞することまでさせられている[3][4]。
寛元4年(1246年)11月に従四位下に叙されていたが、建長元年(1250年)1月に正四位下に叙され、6月に左近衛中将に任命される[4]。建長2年(1251年)1月に美濃守を兼任し、建長3年(1252年)6月に閑院内裏造営の功績により従三位に叙せられている[4]。こうして公卿に上って順調に昇進をしていた頼嗣であったが、一方で宝治合戦における三浦・千葉氏らの残党が北条氏によって捕縛されて謀反の計画が露見するなど、北条家との関係は次第に悪化していた[4]。
執権の北条時頼と連署の北条重時は密かに頼嗣を廃して後嵯峨上皇の皇子を新たな将軍に迎える計画を密かに進めており、上皇がこれに応じて宗尊親王を鎌倉に派遣すると、頼嗣は入れ替わるように将軍職と鎌倉を追われて追放した[5]。この際、頼嗣は陰陽師を使って日が悪いなどとして延期を図ったりしているが無視されている[5]。
追放から4年後の康元元年(1256年)8月11日に父の頼経が39歳で死去すると、頼嗣も父の死がこたえたのか9月24日、あるいは9月25日に後を追うように世を去った[5]。享年18[5]。死因は赤斑瘡とされている[5]。父親同様に墓所は不明とされている[5]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
日本史における歴代将軍一覧 |