足利義量
足利 義量(あしかが よしかず、応永14年7月24日(1407年8月27日) - 応永32年2月27日(1425年3月17日))は、室町時代中期の室町幕府の第5代征夷大将軍(在職:応永30年3月18日(1423年4月28日) - 応永32年2月27日(1425年3月17日))。
生涯[編集]
義持から幼少時から寵愛され、深い愛情を受けて育った。応永30年(1423年)に父の義持から将軍職を譲られて、17歳で第5代将軍に就任する。しかし当時は38歳の働き盛りである父の義持は健在であり、実際の幕政は義持や管領、さらに守護大名らによって行われて、義量は形式的な将軍に過ぎなかった。このためか、義量が独自に行なった政策などは確認できないばかりか、花押すら現在に伝わっていない状態である。
『花営三代記』によると、将軍に就任する2年前の応永28年(1421年)、義持が同朋衆の毎阿弥を通じて義量に対して「大御酒、甚だもって然るべからず」(大量のお酒を飲むことは絶対に駄目だ)と注意し、さらに義量の側近に対して「部屋での飲酒を禁止」「許可のない酒の持ち込み禁止」を義量に徹底させるように命じた上で、起請文を提出させている。応永28年の時点で義量はまだ数えで15才であり、この年齢で酒の味を覚えていたとなると父親の愛情に逆に鬱屈してストレスでもたまっていた可能性がある。
義量は生来から病弱で、酒が原因かどうかは不明であるが将軍就任後から身体に異常を生じさせるようになった。応永31年(1424年)1月には疱瘡にかかり、1度は治癒したものの5月になって再発する。6月には激しい下痢を伴う病気を患い、一時は回復したが応永32年(1425年)2月には再発して危篤状態となり、19歳の若さで死去した。
義量には子が無く、兄弟も他にいなかったので、将軍職は空位となった。大御所であった義持がしばらくは代理の将軍としてそのまま幕政を統括し、義量の死から3年後に義持が死去すると叔父の足利義教が籤引きで第6代将軍として就任することになった。
義量の死は父の義持が殺害した叔父・足利義嗣の怨霊であったとも、義持が神社勢力を統制するために石清水八幡宮に激しい弾圧を加えた際に神人を数十人殺害したことによる神罰であったとも言われている。義持は義量が重病に倒れると、東寺に塔婆を寄進したり、様々な祈祷や治療を行ったりして回復を願っている。また、将軍在任わずか2年でほとんど事績も無いためか、江戸時代に造られた歴代将軍の木像が足利将軍家の菩提寺である京都の等持院に安置されているが、義量と第14代将軍の足利義栄の木像だけはなぜか存在していない。
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