日本の歴史

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日本の歴史(にほんのれきし)は日本国と、それに関連する世界の歴史を記述する。

序文[編集]

ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島は大陸から離れている環境で独自の文化を築いてきた。外国からの文化も移入してそれを吸収し、自らの文化としてきた。外国勢力との衝突も少なく、時には国の存亡をかけた戦いが起きることもあったが、それはすぐ忘れられた。近代に入ると世界史の渦にも巻き込まれ、中央集権体制で近代化に成功し、近代戦で勝利を治めるも、最終的には第二次世界大戦に巻き込まれ、連合国に敗北した。日本国憲法のもとで再出発したこの国の将来はどうなっていくか考えることと並行してこの国の歴史をまとめる。

日本列島の形成[編集]

第三紀よりユーラシア大陸の東側で日本海溝に沈み込む太平洋プレートによって火山活動が活発になり、日本列島の骨格が形成された。石炭石油が形成されたのもこの頃であった。第四紀に入ると伊豆諸島の日本列島への衝突、糸魚川静岡構造線の衝突などで現在の日本列島が形成された。ユーラシア大陸とは地続きだったり、海没するなど、激しい変化を遂げた。

旧石器時代[編集]

まず、日本人はどこから来たのか。北方説、南方説、朝鮮半島、これらの混合説等様々な説があるが、特定されていない。まだ朝鮮半島とは地続きだったときもある。まだ日本は金属も農業も知らない時代である。狩猟採集の時代である。

縄文時代[編集]

土器を作るようになり、小魚や小さい木の実も煮て食べられるようになった。農業を行っていた形跡はみられない。火山活動が活発で、南九州では破局噴火により、当時の縄文文化が滅び、シラス台地が形成された。

弥生時代[編集]

大陸から稲作がもたらされ、農業が始まった。安定した食料を得られることによって餓死の心配がなくなった。富を蓄える者が出てきて貧富の差ができた。

邪馬台国[編集]

存在した場所は畿内説、九州説がある。女王卑弥呼による祭政一致神権政治が行われた。三国志魏志倭人伝によって日本が始めて文書によって紹介され、歴史の表舞台に登場した。

古墳時代[編集]

北方騎馬民族説がある。巨大な古墳が作られた。が登場した。古墳の埋葬品に埴輪が使われた。

飛鳥時代[編集]

遣隋使が派遣され、大陸の進んだ文化を取り入れた。仏教が伝来する。

奈良時代[編集]

奈良に都を置いた。聖武天皇によって東大寺が建立されるなど、仏教を重んじた。 701年の制度を模した大宝律令が制定され、律令政治が始まった。中央集権体制で各地に国司を派遣した。

平安時代[編集]

奈良に疫病が蔓延したので794年京都に都を置いた。遣唐使の廃止により国風文化が生まれ、貴族の華やかな文化が開いた。特に、天皇に代わって藤原氏が実権を握った1000年頃が最も華やかであった。政治の実権は藤原氏が、1100年頃は若いうちに隠居した元天皇(上皇)が握っていた。

しかし、各地の貴族が農民から取れるだけの税を取って藤原氏に貢ぎ、出世を望むという習慣が根付き、各地の有力農民が武装した。これが武士の始まりである。やがて天皇の子孫の中に武士になった者を中心とした武士団が形成され、平将門の乱が起きた。その後、伊勢平氏および河内源氏が特に大きな武士団として台頭した。貴族の権力争いに利用される形で、源氏と平氏が争った結果、平氏が勝利し、平清盛律令体制では最高位の太政大臣となった。しかし、平清盛の死後、東国武士団と結びついて盛り返した河内源氏と[1]、伊勢平氏との間で再び源平合戦が起き、今度は源氏が勝利し、平氏の主力は壇ノ浦で滅びた。

鎌倉時代[編集]

平氏を滅ぼした源氏鎌倉幕府を置いた。幕府と御恩、奉公の関係を結んだ守護、地頭を全国各地に置いた。封建制の始まりである。しかし、源氏の血筋は三代で滅び、後は北条氏による執権政治となり、征夷大将軍は名目上の存在となった。モンゴル帝国の襲来、いわゆる文永の役弘安の役では、来寇した軍勢を破ったが、多額の戦費がかかり、幕府は徳政令を発布するも経済は混乱し、足利尊氏が鎌倉幕府に背き、幕府の滅亡に繋がった。

建武の新政[編集]

京都に都を置いた。後醍醐天皇による親政で中央集権体制の国家であったが、武士の支持が得られず、わずか2年で終わった。

南北朝時代[編集]

南北朝時代も参照。

室町時代[編集]

足利尊氏が初代征夷大将軍となって京都に幕府を置いた。南北朝時代を経て守護大名の力が強くなり、応仁の乱によって室町幕府の力が有名無実化し、戦国時代となった。

戦国時代[編集]

応仁の乱の頃から室町幕府守護大名の力の均衡が崩れ、守護大名と国人一揆衆の力の均衡も崩れた。それぞれの勢力が勝手に、互いの領土を奪うために戦争を開始した。室町幕府はこれを止めることができず、室町幕府の存在も征夷大将軍の命令も有名無実化した。守護大名のあるものは戦国大名になり、あるものは家臣に滅ぼされ、下剋上の世の中となった。1543年種子島火縄銃が伝えられる。戦術に大きな影響を与えた。大航海時代によって世界に進出したスペインポルトガル勢力との接触が始まり、南蛮貿易が盛んになった。

安土桃山時代[編集]

足利義昭が京都から追放されて名目的に残っていた室町幕府が滅びてから、徳川幕府が始まるまでの、織田信長豊臣秀吉が支配した時代である。前半は戦国時代の延長、後半は江戸時代的な内政重視の政策が多い一方で、朝鮮出兵(文禄の役慶長の役)などこの時代独自の海外戦争もあった。

江戸時代[編集]

前期[編集]

1600年関ヶ原の戦いに勝利した東軍の総司令官を勤めた徳川家康が、1603年江戸に幕府を開いた。封建制が完成し、大坂の陣によって豊臣氏を滅ぼし、徳川幕府によって三百近くの小国を参勤交代武家諸法度によって睨みを効かせた。キリスト教を禁止し[2]、日本人の海外渡航と帰国を禁じ、ポルトガル人の来航を禁じて徳川家光によって鎖国が完成した[3]

中期[編集]

その後、200年に渡って、戦争の無い平和な時代となった。18世紀から貨幣制度の浸透と内航海運の発達によって商人の経済力が高まる一方、大名をはじめとする武士や農民が窮乏した。上方を中心とした元禄文化が広がった。

後期[編集]

飢饉による百姓一揆や打ち壊しといった社会不安が広まり、江戸を中心とした退廃的な化政文化が花開いた。大塩平八郎の乱アヘン戦争によって国の内外に大きな変動が起き、徳川幕府は右往左往するばかりであった。

末期[編集]

1853年黒船来航、翌年の日米和親条約締結による開国によって鎖国が終わり、アメリカ合衆国の砲艦外交に敗れた幕府の脆弱さが明らかになったため、徳川幕府の権威は地に落ちた。さらに、朝廷に無断で日米通商条約を締結し、将軍世継ぎ問題も徳川幕府が無断で強行すると徳川幕府を非難する声が上がった。これに対して大老井伊直弼思想弾圧である安政の大獄によって事態を打開しようとしたが、1860年桜田門外の変により暗殺された。これにより徳川幕府の権威はさらに地に落ち、武力で徳川幕府を倒そうとする野心家が現れ、1867年大政奉還によって徳川幕府は滅びた。さらに徳川幕府の領地を強制的に取り上げようとしたので旧幕府勢力と新政府との間で戊辰戦争が勃発した。

明治時代[編集]

王政復古の大号令により、建前の上では天皇による親政が開始された。ただし実際は、薩摩藩長州藩出身者などからなる明治新政府にて政治を行っていた。五箇条の御誓文が発布され、廃藩置県を行って中央集権体制を整えた。天皇は江戸改め東京に住まれることとなり、これをもって首都東京に移転したとする考え方が一般的(首都移転していないとの説あり)。1871年に賤民解放令が発布されたが、被差別部落への差別は残った。この間、大日本帝国陸軍大日本帝国海軍が組織化され、学制も発布された。文明開化による華やかなヨーロッパ文化が流入し、西南戦争など、士族の反乱を鎮圧し、ようやく国が安定した。1889年大日本帝国憲法が発布され、帝国議会が開かれ、近代国家としての体裁が整った。日清戦争日露戦争に勝利して大陸への足がかりを築いた。

大正時代[編集]

第一次世界大戦では好景気に沸き、これに勝利し、ドイツ領だった土地を国際連盟から委任統治を受けた。ロシア革命によりシベリア出兵を行ったが米価の高騰により米騒動が発生した。スペイン風邪の流行で多くの死者が出た。

昭和戦前[編集]

満州事変に始まる大陸での内紛は満州国の建国、上海事変に至り、日中戦争の勃発となった。この間、日本は国際連盟から脱退し、五・一五事件ニ・二六事件が発生した。国家総動員法日独伊三国同盟の締結により戦時体制が強まり、新聞は「ABCD包囲陣」、「バスに乗り遅れるな」と書きたてて戦意を煽った。

太平洋戦争[編集]

1941年12月8日真珠湾攻撃によってアメリカ合衆国イギリスと開戦、のちにオランダとも開戦して第二次世界大戦 (太平洋戦争)に突入した。開戦間もなくは日本側に有利に進んだが、ミッドウェー海戦で大敗し、日本側に不利な状況となった。1945年から本格的にアメリカ陸軍航空軍とアメリカ海軍の日本本土空襲通商破壊が始まり、原子爆弾の投下、ソビエト連邦の参戦によって日本は無条件降伏の道を選んだ。

昭和戦後[編集]

1945年8月15日ポツダム宣言受託を国民に知らされ、戦争に敗北したことを知らしめた。9月3日に降伏文書に署名後、連合国の占領下に置かれた。大日本帝国憲法が改正されて日本国憲法が制定された。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. 源氏についた東国武士団の多くは、坂東八平氏などの伊勢平氏の遠戚とされている。
  2. ただし隠れキリシタンも多かった。
  3. 正確には、蝦夷地、朝鮮、オランダ、琉球などと交易していたため完全な鎖国では無い。