遣唐使

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遣唐使(けんとうし)とは、7世紀から9世紀(飛鳥時代平安時代)にかけて日本から(中国)へ送られた外交使節[1]で、遣隋使の事実上の後継である。

概要[編集]

遣唐使は607年から838年の間に唐へ約19回派遣された。当初は唐の制度などを学ぶのが目的だったが、奈良時代に入ってからは政治的な目的で行われ、次第に知識や文化、仏教を学ぶための文化的な目的に変わっていった。日本から唐へは海を渡って派遣されたが、航海術が未発達だった当時は大変危険なことだったが[2]、唐に比べて多くの事が遅れていた日本は唐の進んだ政治制度や、文化を取り入れるため、遣唐使を継続した[3]。 遣唐使には僧侶、医者、画家なども含まれていたためそれぞれ中国仏教、中国医学、中国画を学んだ。
しかし、長く危険な航海のため命の危険に晒された者も少なくない。一説によると遣唐使の三分の一が命を落としたと言われている[4]。日本へ招聘された僧人の鑑真は渡航の失敗を重ね、来日した際は失明していたとされる。

遣唐使の廃止[編集]

しかし890年頃になると、唐の力は衰退の一途を辿ることになる。894年、右大臣の菅原道真は、宇多天皇により遣唐使に任命されたが、唐が衰えていることや航海の危険さを主張し、遣唐使の廃止を宇多天皇に訴えた[5]。道真を信頼していた宇多天皇は遣唐使の廃止を決定した[6]

遣唐使の一覧[編集]

回次 時期 遣唐使 唐朝皇帝 日本天皇
1 630年 - 632年 犬上御田鍬 太宗 舒明天皇
2 653年 - 654年 吉士長丹など 高宗 孝徳天皇
3 654年 - 655年 高向玄理など 高宗 孝徳天皇
4 659年 - 661年 坂合部磐鍬など 高宗 斉明天皇
5 665年 - 667年 守大石など 高宗 天智天皇
6 667年 - 668年 伊吉博徳 高宗 天智天皇
7 669年 - ? 河内鯨 高宗 孝徳天皇
8 702年 - 704年 粟田真人など 則天武后 文武天皇
9 717年 - 718年 多治比縣守阿倍仲麻呂など 玄宗 元正天皇
10 733年 - 734年 多治比広成など 玄宗 聖武天皇
11 746年 - ? 石上乙麻呂 玄宗 聖武天皇
12 752年 - 754年 藤原清河吉備真備など 玄宗 孝謙天皇
13 759年 - 761年 高元度など 粛宗 淳仁天皇
14 761年(失敗) 仲石伴など 粛宗 淳仁天皇
15 762年(中止) 中臣鷹主など 代宗 淳仁天皇

関連項目[編集]

参考文献[編集]

超ビジュアル!日本の歴史大百科 2015年 西東社


  1. 超ビジュアル!日本の歴史大百科p74
  2. 超ビジュアル!日本の歴史大百科p74
  3. 超ビジュアル!日本の歴史大百科p74
  4. http://japanfocus.org/-Michael-Hoffman/1911
  5. 超ビジュアル!日本の歴史大百科p74
  6. 超ビジュアル!日本の歴史大百科p74