遣隋使
遣隋使(けんずいし)は倭国が中国の隋へ派遣した外交使節である。600年から614年にかけて派遣された。618年の隋の滅亡後は遣唐使に引き継がれた。
遣隋使の派遣目的[編集]
隋が中国を統一したため、当時の先進国である隋の文化を摂取する目的が第一であった。
河上麻由子は仏教的朝貢を指摘し、遣隋使が仏教色を強調したことに政治的意味があると主張した[1]。
遣唐使の派遣回数[編集]
派遣回数については、一回説(鄭孝雲)、三回説(本居宣長、坂本太郎)、高橋善太郎)、四回説(石原道博、山崎宏、宮崎市定、井上光貞、篠川賢)、五回説(徐先堯、上田正昭)、六回説(増村宏、坂元義種)と多様である[2]。
一回説は607年と608年を合わせて一回とする。三回説の本居宣長と坂本太郎は607年、608年、614年の3回である。三回説の高橋善太郎は600年、608年、610年の3回とする。
遣隋使の派遣一覧[編集]
No | 西暦年 | 和暦 | 使人 | 帰国年 | 資料 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 600年 | 推古天皇8年 | 不明 | 不明 | 隋書のみ記載 | 文帝より訓戒あり |
2 | 607年 | 推古天皇15年 | 小野妹子 | 608年 | 隋書と日本書記に記載 | 倭王書状を持参、隋使裴世清ら来日 |
3 | 608年 | 推古天皇16年 | 小野妹子(大使)、吉士雄成(小使) | 609年 | 隋書と日本書記に記載 | 留学僧を派遣 |
4 | 610年 | 推古天皇18年 | 不明 | 不明 | 隋書のみ記載 | 方物を献上する |
5 | 614年 | 推古天皇22年 | 犬上御田鍬、薬師恵日 | 615年 | 日本書記のみ記載 | 百済使とともに帰国 |
600年の遣隋使[編集]
開皇20年(600年)に倭国は隋に使者を派遣した。日本書記に対応させると、推古8年である。 隋書巻81・倭国伝に次の記載がある。日本書記に記載はない。
倭王(姓「アメ」字「タラシヒコ」名「オオキミ」)が隋に使者を送ってきた。皇帝・高祖(文帝)は所司(担当官)にその風俗を質問させたところ、倭王は天を兄とし、日を弟として、未明の頃に出て政務を聴き、跏趺して坐っている。日が出ると務めをやめ、我が弟に委ねようと答えた。高祖はそれを聞き、はなはだ不合理なこと(義理なし)だ、訓令により改めさせようと述べた。王の妻は雞彌(けみ)という。後宮に官女が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(リカミタフリ)と呼ぶ。城郭はなく、内官(官僚)に十二等級がある。定員の上限はない。軍尼(クニ)が一百二十人いてり、中国の牧宰(地方長官)に相当する。八十戸に一人の伊尼翼(稲城)を置く。中国の里長のような役職である。十の伊尼翼が一つの軍尼に属している。(後略、この後に風俗の記述がある)
中国への使いは上表文を持参することになっているが、このとき持参していない。倭国の海外派遣はおそらく始めてのことであったから[5]、外交儀礼を知らなかった可能性がある[2]。
この時の倭王が誰であるかは、諸説ある。推古天皇説、厩戸皇子説が有力である。ただし推古天皇では「妻のいる男性」と矛盾する。また厩戸皇子では大王になるには年齢が若すぎる。そこで用明天皇説、蘇我馬子説もある。太子の利歌彌多弗利は「和歌彌多弗利」(ワカミタリフ)と理解されているが、厩戸皇子と繋がるかどうかが課題であるとされた[2]。
隋書の記載はあるが、日本書記の記載はないため、正式な倭国の使者ではないとの解釈があった(本居宣長)。しかし戦後は倭国の使者と認める共通認識が生まれている[2]。
607年の遣隋使[編集]
日本書記に推古天皇15年(607年)7月3日、鞍作福利を通訳として大礼[6]小野妹子を大唐に派遣した。日本書記記載の大唐は「隋」の誤りである。
608年4月に小野妹子は大唐に到着する。中国名を「蘇因高」とした。裴世清とその部下(下客)十二人が小野妹子に従って筑紫に到着した。難波に吉士雄成を迎えに遣わし、大唐の客裴世淸らを召す。客人のため難波に高麗館を新館造営し、客人たちは難波津に宿泊した。中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平を接待役とした。小野妹子は奏上して、「帰朝時に唐帝は返書を私に授けました。しかし、百済国を通過したときに百済人がそれを略取したため、献上できません」。そこで群臣は協議し、「使者は死んでも目的は失わない、どうして大国の書をなくしたのだ」と非難した。流刑の罰を受けることになった。その時天皇が「妹子に罪があると言っても、軽々しく罪にしてはいけない。大国の客に聞かれるのも失礼だ」として、赦免した(日本書記)。
国書紛失の解釈については、日本に都合の悪いことが書かれていため失くしたことにしたとの解釈がある。
隋書倭国伝では、もう少し詳しく書かれている。倭王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。『私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため国に留まり、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。』 裴世清は答えて言った『(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えします。』 対面が終わって王は引き下がり、裴世清は館に入った。
河上麻由子はこの日本書記の記載について、どこまで実際にあったことかよくわからないと評している[7]。
608年の遣隋使[編集]
608年の遣隋使は日本書記によれば、帰国する裴世清を伴い、大使・小野妹子、小使・吉士雄成、通訳・福利として、遣隋使を派遣し、學生として、倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧の新漢人日文・南淵請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟など8名が同行したと記載される。
610年の遣隋使[編集]
隋書に記載がある「大業六年、倭国は使を遣し、方物を貢ぐ」と記載される。日本書記には記載されない。大業六年(610)の記事は倭国の推古18年に相当する。
614年の遣隋使[編集]
日本書記に614年(推古天皇22年)、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わした。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国したと記載がある。隋書には記載がないため隋に入国したかは不明である。
612年から614年にかけて隋の3回に亘る高句麗遠征と煬帝の側近楊素の息子楊玄感による反乱を契機に各地で反乱がおき、隋の政情は不安定となっており、隋は受け入れ態勢がなかったものと思われる。