桜田門外の変
桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)とは、1860年3月24日(安政7年3月3日)に徳川幕府大老井伊直弼が江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)豊後杵築藩・松平親良上屋敷前[1][2]で付近で元水戸徳川家家臣及び元島津家家臣らによって暗殺された事件である。
概要[編集]
安政の大獄による言論弾圧は尊皇攘夷派の反発を招き、暗殺計画が練られた。安政7年(1860年)3月3日の朝、井伊直弼は将軍・徳川家茂に桃の節句の賀詞を述べるために江戸城に登城する最中の桜田門外において、井伊家江戸上屋敷(現憲政記念館付近)から江戸城に向かっていた[3]。襲撃場所は現在の「桜田門交差点」(警視庁の前面道路の交差点)付近である。
襲撃前日に旅館で全員が顔を揃えて酒を酌み交わし、当日、元水戸徳川家家臣及び元島津家家臣らは武鑑を持って大名行列の見物をしているふりをしていたが、井伊家の籠が近づくと籠訴を装った襲撃役が駕籠に向かって拳銃(1851ネイビー)を発砲し、それを合図による襲撃を受け、元島津家家臣の有村次左衛門に駕籠から引きづり出されて首をとられて暗殺された。享年46(満44歳没)。
事件後の対応[編集]
暗殺という不名誉な死去を遂げたため、本来ならば井伊家は断絶改易は必至であったが、そうすると井伊家家臣が赤穂事件の際の浅野家と同様の行動を起こす可能性があるのであえて伏せた。老中の安藤信正の裏工作もあり、表面上は直弼は重傷を負って存命とされた。そして、嫡男の愛麻呂(直憲)を後嗣として跡を継がせる処置が整うと、3月晦日に直弼は大老辞任、さらに1ヶ月後の閏3月晦日に直弼の死が正式に公表された。
葬儀は4月9日に世田谷の豪徳寺で行なわれた。4月28日に井伊家の家督は井伊直憲が継承した。
実行犯の探索は執拗に行われ、3名を除き、討ち死に、自害、自訴、捕縛に至った。
自訴した者、捕縛された者は切腹が許されず、死罪となった。探索から逃れた者の内、一名は後に自害したが、二名は明治維新後まで生き延びた。
また、襲撃しなかった関係者も捕らえられ、獄死した者もあり、トドメを刺した有村次左衛門の次兄の有村雄助も幕府から追及され、薩摩藩命で処罰された。
井伊家の対応としては、当日、井伊直弼を護衛していた井伊家家臣も、死亡した者は家督相続は許されたが、重傷者は追放、軽症者は切腹、無傷の者は死罪となった。
影響[編集]
- 徳川幕府の高官が江戸城門前で衆人環視の中で暗殺されるという失態から徳川幕府の権威は地に落ちた。
- 水戸徳川家に対する追求が厳しくなり、これに反発する形で水戸徳川家で内紛が起きた。後日起きた天狗党の乱では、井伊家家臣が水戸徳川家家臣の乱参加者の処刑を率先して行った。
- 井伊直憲の彦根藩主相続は20万石への減封を伴うものとなって、大政奉還後の戊辰戦争で彦根藩は新政府側に付いた。