五箇条の御誓文

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五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)とは、慶応4年3月14日1868年4月6日)に明治天皇によって出された誓文であり、明治政府の基本方針である。五箇条の誓文など様々な表記がある。

概要[編集]

慶応3年(1867年)に大政奉還が行なわれ、江戸幕府は滅亡した。しかし徳川慶喜をはじめ旧幕府勢力は巻き返しを図っていた。一方、明治政府側は旧幕府勢力の壊滅を図り、慶喜に辞官納地を迫り、さらに王政復古の大号令を発するなど、新政府としての体制を固めてゆく。慶応4年(1868年)1月、徳川慶喜は旧幕府勢力に対して討薩摩藩の表を発して、旧幕府軍の京都への進軍を命じた。これにより鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が開始される。これら一連の戦いは明治政府軍の圧勝に終わり、徳川慶喜は海路から江戸城に逃げ帰った。

明治政府ではこの戦争の間にも新政府としての体制を整備しており、3月14日に五箇条からなる御誓文を宣布した。この日は西郷隆盛勝海舟との江戸城の無血開城の交渉が行なわれて、江戸城攻撃の中止が決定した日である。その当日に明治政府は、京都御所において公家や諸大名を招集し、明治政府の基本方針である五箇条の御誓文を宣布したのである。これは、明治天皇が神々に誓うという形で出されており、明治政府の参与で福井藩士の由利公正土佐藩士の福岡孝弟が起案したものに、長州藩士の木戸孝允が修正を加えたものとされている。公議世論の尊重と開国和親、古い因習の打破や知識を広く世界に求める開明思想なども盛り込まれており、後の自由民権運動などにも影響を与えたと言われている。

五箇条[編集]

  • 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ(広く会議を興し、万機公論に決すべし)。
  • 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ(上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし)。
  • 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス(官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す)。
  • 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ(旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)。
  • 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ(智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]