廃藩置県

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廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治政府が中央集権確立のため、江戸時代から続いていた「藩」を廃止し、新たに「県」を設置した制度改革である。

前史[編集]

旧幕府勢力は北海道・函館の五稜郭を拠点として海軍副総裁の榎本武揚を初代総裁とした共和制国家を建国した。これに対して明治政府が日本の唯一の政権と認めるよう、明治政府から列強に申し入れたが、イギリス公使のパークスは日本はいまだ小さな国家の集合体であるとしてとりあわず、中立を宣言した。このことから明治政府は中央集権国家の必要性を痛感することになった。1869年(明治2年)に佐賀・薩摩・長州・土佐の4藩が1月20日、新政府に土地や住民を朝廷に奉還する「版籍奉還」を行ったものの、各大名は知藩事としてそのまま地方の権力を握り、収税権等を握ったままであった。実態は江戸時代と変わりがなく、中央集権とは程遠い状況であった。

明治2年(1869年)末、山口藩諸隊の常備軍改編問題から不満をもった諸隊兵士が「脱退騒動」を起こし、1870年(明治3年)1月、脱退兵らが山口の藩知事公館を包囲し、関門を閉鎖する動きに出た(長州藩脱隊騒動)。木戸孝允は2月に反乱を鎮圧し、3月には関係者の斬首などの処分を行った。これを契機として木戸は廃藩置県の慎重派に転じた。木戸は 8月中旬には「中央集権化に10 年を期す、漸進的に「誘導」しなければならない」と、持論であった急進論を放棄した。また大久保は薩摩の島津久光が反乱を起こすことを恐れていたため廃藩置県では慎重派であった。1870年(明治3年)12月18日、岩倉具視と大久保が勅使となり鹿児島を訪れ、西郷と久光に対上京の勅命を伝え、西郷が上京することになった。

廃藩置県の経過[編集]

西欧の実情を見聞し、中央集権政府の必要性を強く感じていた山県有朋井上馨を味方とし、各藩で異なっていた兵制の統一に悩んでいた鳥尾小弥太野村靖も味方となり、薩摩の西郷隆盛の説得を試みた。最終的に戊辰戦争後の藩士の給与負担に頭を悩ませていた西郷隆盛の同意を得ることに成功した。また井上は親交の深い木戸を説得した。

明治4年7月9日(1871年8月24日)、西郷隆盛大久保利通西郷従道大山厳木戸孝允井上馨山縣有朋の7名の薩長要人が木戸邸で会談したが、廃藩置県の方法を巡り紛糾し、大久保と木戸の間で激しい論争が起きた。西郷は「その後のことは、おいが引き受けもうす。暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご心配なくやって下され。たとえ島津公であっても弓を引く」と断言したことにより議論は決まり、最終的に廃藩置県を実施することとなった。その後三条実美岩倉具視板垣退助大隈重信らの賛成を得ることとなった。

明治4年7月14日(1871年8月29日)、政府は皇居に在京の知藩事を集めて廃藩置県を命じた。  

藩ヲ廃シ県ヲ被置候事
七月十四日 今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ 御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致事
外史局 編纂(1871)『明治四年 布告全書 七 明治辛未』北畠茂兵衛 ほか

心配していた反乱は起きず、明治維新最大の「革命」は、静かに遂行された。藩士の家禄や各藩の借金を新政府が引き継ぐと表明したことが大きかったと言われる。薩摩にいた島津久光は、廃藩置県の知らせを受けて烈火の如く怒り、終夜花火を打ち上げとと伝わるが、中央からは遠方の出来事であった。