日露戦争
日露戦争(にちろせんそう)とは、明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にかけて行われた、大日本帝国(日本)とロシア帝国(ロマノフ朝・ロシア)の戦争である。この戦争では日本が勝利し、その後日本が列強の1国として拡大してゆく契機となった。
概要[編集]
戦争までの経緯[編集]
明治28年(1895年)4月に下関条約が調印され、日清戦争は日本の勝利で終わった。この下関条約の1つに、清の領土である遼東半島を日本に割譲することが条件として含まれていた。ところが、中国東北部や朝鮮半島に、つまり東方への進出を図るロシアにとって、アジアの強国として台頭し始めた日本が遼東半島を領有することは邪魔なことこの上なかった。そのため、フランスやドイツと図って、東洋の平和のために、を理由にして遼東半島の放棄を日本に求めた。いわゆる三国干渉であるが、当時の日本にまだロシアに対して戦えるだけの軍事力は存在せず、やむなく三国干渉を受け入れて遼東半島を放棄した。
この三国干渉に対し、ジャーナリストの三宅雪嶺は「ロシアのやり方を決して日本は忘れない、きっとこれに報いなければならない」という内容で「臥薪嘗胆」という記事を著した。この臥薪嘗胆は、日本国民のロシアに対する敵意の増大に繋がった。そして日本は、ロシアに対抗できるだけの軍事力を手に入れるため、伊藤博文(第2次伊藤博文内閣)、松方正義(第2次松方正義内閣)は、国民のロシアに対する敵意を後ろ盾に軍備拡張を進めた。そして、第3次伊藤博文内閣では、さらに軍備を拡張するために地租の増徴も図られた(この地租増徴は伊藤の時は失敗。第1次大隈重信内閣の後に成立した第2次山県有朋内閣によって地租増徴案が成立している)。
日清戦争で清が敗れた後、「太った豚」となった弱った清の情勢を見て、日本や欧米列強は中国に積極的に進出を開始。清は半植民地状態に陥った。そして、三国干渉で日本が放棄した遼東半島はロシアが租借したため、日本国民の怒りを誘うことになった。そんな中、明治33年(1900年)に宗教団体である義和団により「扶清滅洋」をスローガンにして義和団事件が勃発。義和団は各地で中国にいた外国人やその関連施設を襲撃した。外国人は清に取り締まりを求めたが、清はその裏で義和団と通じていたので放置していた。そのため、日本を含めた欧米列強の連合軍は軍隊を清に派遣して鎮圧を試みる。すると、清は突然、義和団と共に諸外国に対して宣戦布告した(北清事変)。連合軍は義和団・清の軍隊を北京から追い払い、清は連合軍に降伏し、明治34年(1901年)に講和条約である北京議定書が調印された。
この混乱の中で、ロシアは満州(中国東北部)を事実上占領した。満州は朝鮮半島とは目と鼻の場所であり、これは、親露志向となった朝鮮と共に日本にとって大きな脅威となった。そこで日本は、明治35年(1902年)にイギリスと同盟を結び、ロシアに対抗する(日英同盟)。日本はイギリスと同盟を結ぶことで、満州に駐留させているロシア軍を西に向けることを期待していたのだが、ロシアは満州にいる軍隊を動かさなかったので目算は狂った。
その後、日本はロシアと交渉を重ねて和戦両様の態勢で臨んだが、三国干渉のこともあって日本国民の間にはロシアとの戦争を望む声が強かった。日本政府にロシアとの開戦を迫る過激なグループも作られたりした。明治36年(1903年)春、山県有朋の別荘において桂太郎、伊藤博文、小村寿太郎などの首脳が集まってロシアとの開戦をどうするかについて協議した。
開戦、戦闘[編集]
明治37年(1904年)2月4日、御前会議が開かれ、ロシアとの戦争が決定された。そして、日本軍は朝鮮半島に上陸。2月8日から2月9日にかけて、日本の連合艦隊がロシア艦隊に大きな損害を与えている。ただし、この時点で正式な宣戦布告はされておらず、正式な布告がなされたのは2月10日であった。
満州に進軍した日本陸軍であるが、ここでロシア軍の強硬な反撃にあって苦戦する。5月に3万6000人の日本軍は遼東半島の南山を攻撃。ロシア軍の機関銃による反撃に苦しめられて死傷者は何と3万5000人にも及んだが、何とか攻略した。さらに日本陸軍は8月から9月にかけて遼陽を包囲すると、一気に攻略しようとした。しかし、ロシア軍の機関銃や進んだ武器、装備に苦しめられ、日本の立ち遅れた装備や武器では対抗できず、肉弾戦で挑むしかなかった。激戦の末、ロシア軍は撤退に追い込まれるも、日本軍は遼陽の戦いでは戦死者は約5500人、負傷者は1万8000人に及んでいた。
そして、日露戦争で最も重要な戦いは旅順の戦いである。ロシア軍はこの旅順を守るために堅固な要塞を造り、万全の守備態勢を整えて迎撃した。この旅順攻撃で葬式をとったのが第3軍を率いた乃木希典であったが、乃木はこの戦いで大失敗を犯す。まず、旅順東北正面に見える砲台の間を強襲する作戦をとるが、これが旅順要塞の中でも最も堅牢な場所であり、攻城砲や野戦砲を総動員して砲撃して総攻撃をかけるも失敗し、1万6000人に及ぶ死傷者を出す。やむなく、敵の要塞付近まで穴を掘って接近しての総攻撃をしかけようとしたが、9月19日の総攻撃は大失敗して4800人の死傷者を出す。11月26日に要塞砲の28サンチ砲を使用して攻撃するがこれも失敗する。そもそも、日本軍とロシア軍では装備や武器の差だけでなく、戦い方にも差があった。この頃の日本軍は時代遅れで、旅順要塞付近すら当時の情勢を調べておらず、用意できた地図は日清戦争の時のもので、竹を組んで囲みを作って敵要塞を監視するという前時代的な戦法、あるいは情報軽視の状態だった。
11月末、事態を重く見た日本の満州軍総司令官・大山巌は児玉源太郎に自らの上着を与えて第3軍司令部に赴かせ、乃木に変えて児玉を旅順攻撃の総司令官にすることを命じた。児玉は乃木の攻撃計画を大幅に改め、目標は203高地に設定、さらに砲の位置も変更した。そして、12月に総攻撃をかけた結果、1週間の激戦の末に日本軍は遂に203高地を攻略することに成功。この203高地は旅順港内を望める山頂であり、ここからロシア艦隊を砲撃して大半を撃沈に追い込んだ。結果として明治38年(1905年)1月に旅順を守っていたロシア軍司令官・アナトーリイ・ステッセリは遂に降伏を決意。こうして、旅順は完全に日本軍の手に落ちた。
3月、日本軍は奉天を目指して総攻撃を開始。これに対し、ロシア軍も堅固な守備態勢を築いて迎え撃った。しかし、旅順陥落の時点で最早ロシアの挽回は難しく、3月10日に日本軍は奉天を占領した。この間、両軍の投入した兵力は日本が約25万、ロシアが約30万で、両軍ともに10万以上の死傷者を出していた。
そして5月、日露戦争で勝敗が決定的となる戦いが行なわれる。5月27日、ロシアのバルチック艦隊が日本の連合艦隊の前に日本海海戦において大敗を喫したのである。この日本海海戦での両軍の数は、日本の連合艦隊が大小艦船合わせて90隻、ロシアのバルチック艦隊が38隻だった。ただし、戦艦の数で言えば連合艦隊が4、バルチック艦隊が8と倍の差があった。にもかかわらず、バルチック艦隊は艦隊8隻を含む20数隻が撃沈ないし捕獲された。それに対して連合艦隊は水雷艇を3隻失っただけという大勝利を収めた。これは、日本海海戦の2日前にバルチック艦隊が上海で石炭を補給しようとして不首尾に終わったことも大きかった。なお、この戦いの際、連合艦隊司令長官である東郷平八郎が「天気晴朗なれど波高し」と述べたことは有名である。
講和へ[編集]
陸海で苦戦しているとはいえ連戦連勝を続けていたことから、日本国内ではハルピンやウラジオストクまで落とせる、あるいはシベリアに攻め込むなどという声まで上がっていた。しかし、勝利が続く裏で、日本には限界が近づいていた。まず、相次ぐ戦いのために武器や弾薬、兵力の補給が滞り始めていた。日本の国力では既に限界に来ていたのである。ちなみに、日露戦争の軍事費は約17億円に達したが、そのうちの約13億円は内外の国債によって賄っていた。日本では増税に次ぐ増税が行なわれていたが、それでも日本国民によって何とか賄えたのは約3億円強に過ぎなかったのである。
一方のロシア側にも、これ以上は戦争を続けられない事情があった。まず、勝てると考えていた戦争に連戦連敗、そしてそれにより国内では不満が渦巻き、血の日曜日事件といわれる第1次革命まで起きようとしている始末だった。ロシア帝国にとっても戦争は苦しく、国内では相次ぐ革命騒ぎのため、これ以上の継戦は避けたかったのである。
そこで、日本は日本海海戦での勝利を契機にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領を仲介として、ロシアとの講和に動き出した。ロシアもこれに応じ、8月10日から日露両国は講和交渉を開始する。しかし、講和交渉の対立から交渉は暗礁に乗り上げた。ロシアは日本に既に継戦するだけの力が無いことを承知していたからである。そのため、日本が求める賠償金の支払いや樺太の割譲には容易に応じようとしなかった。日本側の全権であった小村寿太郎は、このままでは講和交渉が決裂する恐れから日本政府に講和の成立を最優先するように求めた。一方のロシアにしても、これ以上は継戦したくなかったし、かといって「日本に負けた」という事実を認めたくなかった。そこで、「賠償金は一切支払わないが、樺太南部を日本に割譲し、関東州の租借権や東清鉄道の一部の鉄道権益を譲渡する」という条件を出し、小村はこれを了承。こうしてポーツマス条約が調印されて、日露戦争は終結となった。
両国のその後[編集]
ロシア[編集]
日露戦争における敗戦をロシアは決して認めなかったが、この戦争で負けたのは明らかだった。ロシアは慌てて国内改革を進めたが、最早遅く、国民の不満は限界に達していた。結局、ロシア帝国はこの戦争から12年後にロシア革命が起こって崩壊することになった。
日本[編集]
勝利と考えていた日本国民にとって、賠償金が取れなかった屈辱的なポーツマス条約は到底受け入れられるものではなかった。そのため、講和条件が明らかになった9月1日に「今回の講和会議は主客転倒」「国民や軍隊は内閣や小村に売られた」「小村を弔旗を立てて迎えよ」「小村が帰国する日には門を閉ざして迎えよ」などという新聞記事が出される始末だった。そればかりではなく、9月3日に大阪公会堂をはじめ、全国各地で「閣僚や元老の全てを処分し、講和条約を破棄して戦争の継続を求める」という趣旨の集会が開かれたりした。
そして、9月5日には遂に東京・日比谷公園において講和反対の国民による暴動、いわゆる日比谷焼き討ち事件が発生する。暴徒と化した市民は政府の御用新聞的な存在だった国民新聞社を襲撃したのをはじめ、内相官邸や市街各所を焼き討ちにした。東京は無政府状態に陥り、政府は戒厳令を出すことでようやく鎮めた。
とはいえ、この日露戦争の勝利により、日本は欧米列強と肩を並べる一等国になったと見なされるようになり、また工業化も急ピッチで進められた。また、ロシアの東方進出や大韓帝国のロシア傾斜はこの戦争により一時的に沈静化し、以後は日本から中国への進出、拡大、第2次・第3次日韓協約による大韓帝国の保護国化が進められてゆくことになった。
なお、この戦争における日本の死者は約12万人、ロシアの死者は約19万4000人であった。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- The Russo-Japanese War Research Society - 日露戦争の研究ページ。英語。
- Русско-Японская война на море 1904-1905 г.г. - 「海における日露戦争 1904-1905年」海軍中心の日露戦争研究ページ。ロシア語。
- Дедовские войны - 主に19世紀ロシアの戦争を扱ったページ。ロシア語。書庫 (библиотека) にノビコフ・プリボイ作「ツシマ」などを収める。
- 日露戦争特別展―公文書にみる日露戦争 - 国立公文書館 アジア歴史資料センター
- 日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで 激闘500日の記録 - 国立公文書館 アジア歴史資料センター
- Yellow Promise/Yellow Peril - 西洋のポストカードに描かれた日露戦争(日本の指揮官の肖像や黄禍論などを描いたもの)
- 日露戦争 - No.ED-001(動画)・中日映画社