参勤交代

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参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代大名交代寄合が一定期間、江戸に出仕して(参勤)、期間が来れば領地に戻ること(交代)を言う。参覲交代とも言う。江戸時代における大名家の重要な職務のひとつであった。

概要[編集]

参勤交代の原型[編集]

参勤交代は江戸幕府によって制度化されたものであるが、実はそれ以前に原型があったと見られている。参勤の起源は鎌倉時代奉公にあると見られ、室町時代守護大名京都在住が強制されていたのもその原型と思われる。ただし、室町幕府応仁の乱で機能を失ってからはこの京都在住は有名無実化している。

織田政権豊臣政権下でも参勤は見られ、豊臣秀吉がその原型をある程度作ったと見ることができる。例えば徳川家康は豊臣政権下では五大老筆頭に任命されたが、そのため中央にたびたび参勤することを余儀なくされ、領国の政務は家臣に一任せざるを得なかった。

江戸幕府による制度化へ[編集]

秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て家康の天下が確立。江戸幕府が成立して江戸は一大都市へと生まれ変わることになった。すると、家康に対して参勤しようとする大名が急増し、特に家康が幕府を開くとその傾向が一層強まり、諸大名の江戸参勤が相次いだ。家康は、参勤する大名に対して自らの妻子を江戸に在住させることを条件として屋敷地を与え、さらに自らも鷹狩と称して自ら参勤する大名を出迎えたりする配慮を示したりした。慶長14年(1609年)、家康は大名に対して参勤と江戸での越年を求めるなど、参勤を定着させていくようになる。

大坂の陣豊臣氏を滅ぼして家康の天下が確実になると、元和元年(1615年)に武家諸法度において「参勤作法之事」が定められて、参勤交代は制度化された。

寛永12年(1635年)、家康の孫で第3代将軍の徳川家光は、大名の4月参勤を制度として定めた。7年後の寛永19年(1642年)にはそれまで免除していた譜代大名に対しても参勤を義務付け、こうして参勤交代の制度化が完成した。なお、大身旗本である交代寄合については義務でなかったものの、領地へ交代することが奨励された。

第8代将軍・徳川吉宗享保の改革が行なわれた際には、幕府財政の窮乏化から上米の見返りに諸大名の参勤による江戸在府期間を半年間、短縮することになった。ただ、吉宗はこれをあまり快く思っておらず、吉宗の改革はあくまで家康時代の強い幕府を再建しようというのが目的で参勤の短縮はそれに反しているとして、数年で元の期間に戻している。

文久2年(1862年)、文久の改革により、参勤交代は3年に1度、しかも江戸在府は100日とされて事実上制度としては形骸化した。これは江戸幕府が幕末に入って既にその力を失っていたことが背景に挙げられる。そして、江戸幕府滅亡と共にこの制度も消滅した。

意義[編集]

この制度は江戸幕府による大名の管理制度であった。参勤交代による大名家の藩財政への負担は大きく、そのため大名家から力を削いでいくという幕府の政策は成功したといえる。また、全国の大名によって参勤が行なわれた結果、交通の整備や宿場町の繁栄、各地の文化の波及などが進み、江戸時代の平和の下で各地の繁栄にも役立つことになった。

関連項目[編集]