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(ずい,英:Sui)は589年に楊堅(後の文帝)が建国した国家である。建国後に、中国再統一を果たした。倭国(日本)から、推古天皇の時代に遣隋使を派遣した。

初代文帝[編集]

文帝は廟号を高祖といい、北周の大将軍の子である楊堅のことである。彼は北周の宣帝の皇后に娘の楊麗華を立てて外戚として有力となった。ときに宣帝は臣下の妻である13歳ほどの幼い美少女の尉遅熾繁強姦し、五人の皇后を立てて淫乱に走った。

こうして北周の王朝は信望を失い、宣帝の死後に楊堅が禅譲を受けて即位することとなる。さらに次男の楊広を派遣して、589年に南朝のを滅ぼして、中国を統一した。南朝の陳は、ときの皇帝が美女・張麗華らと淫乱にふけり衰退しており、滅亡は時間の問題であった。このとき、楊広は張麗華を捕らえて犯し、妾とするつもりだったが、彼女が殺されてしまったので果たせなかった。

一方、文帝は尉遅熾繁を強引に妾としたが、独孤皇后の嫉妬で殺されてしまう。だが、陳を滅ぼすと、皇女であった12歳の美少女の宣華夫人陳氏、その妹の弘政夫人陳氏、後宮の宮女だった美女・容華夫人蔡氏らを捕虜とし、彼女たちを自分の妃として犯した。

この間、開皇(581~600)と仁寿(601~604)の二つの年号をもつ。都は長安の東南に建設した大興城であった。

二代[編集]

長男の楊勇は多くの女を妾とした女好きのため、一夫一妻主義者の独孤皇后に嫌われ廃太子とされた。次男の楊広は正妻のみを愛しているふりをして独孤皇后の歓心を買い、太子となる。

だが、皇后の没後、文帝が病床につくと、彼は父の愛妾・宣華夫人と看病にあたっていたが、楊広は別室で着替えようとしていた彼女を強姦しようとした。宣華夫人は逃れて文帝に強姦されそうになったことを涙ながらに告げ、文帝は激怒し、楊広を廃太子としようとするが、直後に急死する。楊広による毒殺ともいう。

こうして604年、楊広は即位する。これが後の煬帝である。彼が即位後にすぐに行ったことは、宣華夫人を犯すことだった。気の進まない彼女をその日の晩には呼びつけ、関係を強引に持ち、さらに自分の後宮に入れて慰み者とした。文帝・煬帝に運命を狂わされ、父子にもてあそばれた彼女は一年後に失意のうちに病死する。父の別の妃である容華夫人も同じく彼に犯された。

煬帝は東都洛陽城の建設や大運河の建設など土木事業を推進した。工事要員として農民を徴発し、その生活を困窮させた。612年から始まり、3度に及ぶ高句麗遠征を行うが失敗し、国政は混乱して反乱を誘発した。

反乱軍の一つの李淵とその子李世民617年7月に長安を目指して進撃を開始し、11月に長安を占拠した。煬帝は長安陥落に追いつめられ毒で自殺しようとしたが、部下の宇文化及は煬帝を絞殺した。918年5月、長安の李淵は隋の恭帝(煬帝の子)から禅譲されて皇帝(高祖)となりを建国して、隋は滅んだ。