弘安の役

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弘安の役(こうあんのえき)とは、鎌倉時代弘安4年(1281年)に行なわれた中国を当時支配していた王朝の軍勢と、鎌倉幕府軍の戦いである。元軍による2度目の日本来襲でもあるため、元軍の第2次日本遠征とも言われている。

概要[編集]

遠征までの経緯[編集]

弘安の役の7年前、すなわち文永11年(1274年)に元軍の第1次日本遠征、すなわち日本で文永の役が行なわれて、元軍は日本軍に敗北した。

しかし、当時の元の皇帝フビライ・ハーンは敗北とは認識しておらず、この翌年に日本に対して使節を派遣する。使節に選ばれたのは礼部侍郎(現在でいう文部次官)の杜世忠兵部郎中(現在で言う国防省の局長)の何文著が正使、副使としてそれぞれ派遣された。ところが、この使節団は当時の日本の正式な外交窓口である大宰府を無視して長門国の室津に赴くという手段をとる。これが影響したのか、この使節らは希望通りに鎌倉に送られたものの、そこで当時の執権北条時宗の命令で鎌倉の竜ノ口で斬首された。なお、この時のフビライの国書がどのようなものであったかは記録が無いので不明であるが、使節を斬るというのは余程のことであるため、時宗も相当の覚悟を決めて行なったものと見られ、斬首後に元の襲来に備えて九州四国の海岸地域に戒厳令を発して御家人を総動員している。

使節が斬られたという情報はすぐには元側に伝わらなかったと見られる。また、元側はすぐに日本遠征をする余裕は無かった。当時、中国南部にはまだ南宋が残っていたからである。フビライは日本を攻めるには南宋をまず始末する必要があると考え、バヤンを総司令官とした南宋討伐軍を派遣した。このバヤン率いる元軍により、南宋の安慶府知事范文虎が元軍に降り、さらにバヤンは南下して元の至元13年(1276年)3月に南宋の首都・臨安に入城し、当時の南宋皇帝が捕縛されて、南宋は事実上は滅亡した。しかし、南宋残党は文天祥張世傑陸秀夫らを中心にしてなおも各地で反元運動を繰り返したので、元軍はそちらの平定を優先せざるを得なくなり、日本遠征はさらに遅れることになった。これら残党が崖山の戦いで滅びたのは、元の至元16年(1279年)2月であった。

そして、この2月甲申の日、フビライにより日本遠征の準備をするように勅命が下された旨が『新元史』から読み取れるのである。

  • 「江淮、湖南、江西、福建に勅し、戦船六百艘を造り以て日本を征せんとす」

この4省は南宋が完全に滅んで、元の領土に加えられたところである。それらの新領地に対して、造船と兵力動員を命じたのである。なお、南宋の旧臣で元に降った范文虎は、南宋が滅んだ年の6月に部下の周福鸞忠らを使節として派遣し、南宋の滅亡を報せた上で日本に対して元に帰順するように勧告した。しかし、北条時宗はこれらの使節を大宰府において斬首した。そしてこの頃になってようやく、元側に杜世忠らの斬首が知られることになった。フビライは激怒し、服属していた高麗に対して900艘の軍船建造、軍隊動員を命じた。

弘安の役[編集]

日本の弘安4年、元の至元18年、すなわち西暦で1281年に元軍の第2次日本遠征が開始された。第2次日本遠征軍は、高麗から出撃する東路軍が4万、慶元(現在の浙江省寧波市)から出撃する10万の江南軍の両部隊が日本を目指す計画となっていた。東路軍の司令官は文永の役と同じく忻都洪茶丘金方慶らが務めた。この軍は華北の元軍と高麗軍の混成部隊であり、5月3日に合浦を出て、6月15日に江南軍と壱岐国で合流する計画となっていたとされる。ただ、予定より早く出発したため、しばらく巨済島で停泊した後、対馬国に向かい、そこにいた日本軍を滅ぼして壱岐に進んだという。ところが、この東路軍は予定以上に突出した動きをとり、6月6日にはもう博多湾に到着するという計画に反する行動をとっている。

しかし、日本側は万全の態勢で待ち受けていた。海岸線に沿って堅牢な石塁を築き上げて、軍隊も増強していた。その日本軍の守備の堅牢さを見た元軍は博多湾から上陸を図ればかなりの犠牲を出す恐れから、ひとまず志賀島能古島に上陸して博多湾をうかがうことになった。

元軍が攻めて来ながら守勢に回りだしたことから、日本軍は逆に勢いづいて元軍に奇襲をかけたり、小舟を出して敵艦隊を襲ったりした。しかも季節はだったため、慣れない土地で対陣していた元軍の中で疫病が起こり、さらに江南軍との手違いからやむなく壱岐まで撤退することになった。

さて、江南軍は阿刺罕と范文虎を司令官とした10万の軍勢で編成されていた。この軍勢の大半は南宋の降伏兵であった。ところが、出撃前に阿刺罕が重病に倒れたので、阿塔海が急遽新司令官に任命されるというハプニングが起こり、それにより出撃が大幅に遅れることになる。しかも、同時期の偵察の報告で東路軍との合流は壱岐よりも平戸島のほうが適当であるという報告を受けて急遽合流場所まで変更されてしまい、さらに東路軍に対してこれらの情報を報せるはずの先遣船団が航路を誤って対馬に到着するというミスまで重なった。つまり、ハプニングとミスの連続で、東路軍と江南軍の合流が大幅にずれ込んでしまうことになったのである。

江南軍は6月18日に慶元を出たが、これは当初の合流計画より3日も遅れた出発であった。6月末に江南軍は平戸島に到着し、壱岐からの東路軍とようやく合流した。ところがそれから元軍は1ヶ月も軍を動かそうとしなかったという。これは何故かは不明であるが、考えられる理由としては、

  • 東路軍が単独で日本軍と戦い続けて疲弊し、その上軍中で疫病まで発生していて士気が低かった。
  • 江南軍は元に滅ぼされた旧南宋の兵士が大半で、やる気がそもそも無かった。
  • 東路軍と江南軍の司令官による主導権争い。

などが考えられる。結局、合流した元軍が動いたのは7月27日で、まず鷹島を占領した。日本軍は敗れて博多湾に後退し、元軍はここを拠点にして博多上陸の機会をうかがった。

ところが、7月30日から北九州に台風が襲来。閏7月1日に風雨はますます激しくなり、日本の記録で言う「神風」が起こった。この神風により、元の軍船は多くが沈没し、それによって凄まじい数の溺死者が出たとされている。この時の溺死者に関する記録であるが、史料によって見解が分かれている。

  • 生還者3名だった(『元史』「日本伝」)[注釈 1]
  • 10のうち1、2を存す(『元史』「世祖本紀」)。
  • 師を喪うこと10に7、8(『元史』「阿塔海伝」)。
  • 高麗軍の生還者は1万9397人だった(『高麗史』)。

日本軍は元軍が神風によって壊滅したことを察知すると、さらに攻撃を加えて2万人から3万人に及ぶ捕虜を得たとされる。これらの捕虜は博多に連行されて、旧南宋の出身者のみは助命されて奴隷とされて御家人に恩賞として与えられた。ただしモンゴル人、高麗人、女真人、華北の漢人は全て虐殺されたという。こうして弘安の役は日本軍の勝利で終了した。

その後[編集]

フビライは弘安の役の後も、日本遠征をあきらめなかった。フビライは、2度とも台風によって負けただけであり、戦闘で負けたわけではないと認識していたとされている。そのため、遠征が失敗に終わった翌年、すなわち元の至元19年(1282年)に、フビライは高麗に対して再度の軍船建造を命じた上、いったん廃止した征東行省を復活させたりしている。しかし、相次ぐ日本遠征の命令で課される負担に、江南の民衆が耐えかねて遂に同年には元に対する反乱が勃発したため、フビライはこの年の日本遠征を見送らざるを得なくなる。

翌、至元20年(1283年)には、広東省福建省で元の日本遠征に対する過重な負担に不満を抱いた民衆による反乱がまたも発生。このとき、フビライは日本遠征のために江南に大軍を集結させていたが、急遽その軍勢は反乱軍の討伐軍として転用されることになり、遠征は見送られた。

さらに翌、至元21年(1284年)には、かつて江南軍の司令官を務めた阿塔海がフビライの命令で日本遠征の準備を進めていたが、チャンパで反乱が起きたためにこの軍勢はチャンパ討伐軍に転用されることになり、またも日本遠征は見送られた。なお、この年には執権の北条時宗が34歳の若さで死去している。それを知ってか知らずかは不明であるが、フビライは日本に再度使節を派遣した。この時の使者となったのが兵部尚書の王績翁であった。しかし、これまで日本に派遣された使者はことごとく斬首されていたことから、随行していたメンバーが斬首されることを恐れて、対馬で王績翁を殺してしまう。

その後もフビライは日本遠征をあきらめずに計画したが、オゴデイ・ハン国カイドゥの反乱(いわゆるカイドゥの乱)の対応などに追われて、その機会は2度と訪れることはなかった。至元30年(1293年)にフビライは高麗に対して軍船の建造と日本遠征の準備を命じるものの、至元31年(1294年)にフビライが崩御したことにより、ようやく元の日本遠征は2度と計画されることすら無くなることになり、ここに元寇は完全に終了することになった。

弘安の役による影響[編集]

弘安の役により、影響を受けたのは元より日本だった。日本軍はあくまで元という外敵を撃退したのであり、新たな領地を得たわけではない。そのため、奴隷を得てそれを恩賞にしたなどの一部は別にして、功績のある御家人に与える領地が無かったのである。しかも、再度の元軍の襲来に備えて継続する国防対策や御家人への恩賞問題なども重なり、次第に御家人の生活が苦しくなり幕府に対して不満を抱かせ、わずか50年後の鎌倉幕府滅亡への遠因につながってゆくことになる。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ただし、元史はそもそも記録自体が杜撰なことで知られており、特に日本伝は酷いといわれる。

出典[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]